〈今、人、思考〉:「脆弱さ」の先に燻る光明

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※↑最近ハマっているyonawoのジャケットを拝借しました。(記事の内容とはなんの関連性もありません。)

 

「毎日が描いたような月並みなら幸せだけど」と「僕らなら」という曲でラブサマちゃんは歌う。今、僕はありきたりな日常が、五ヶ月前のあの日常が恋しくてたまらない。

 

 武漢での流行から始まった新型コロナウイルスは瞬く間に世界中へと拡散していった。誰がこんなことを予測できただろうか。一月にニュースを見たときには、新型インフルエンザやエボラ出血熱のような局所的な感染で終わるだろうと思っていた。多くの人が、このウイルスの猛威を遠い場所での出来事として捉えていたはずだ。「私には関係ない」と。そうした楽観的な見方が甘かったということを、今は誰もが感じている。紛争や災害は動的ではない。しかし、目に見えないこのウイルスは動的なもの、すなわち「人間」という乗り物に乗ってあっという間にその猛威を世界中に輸送した。月日が流れるにつれて、徐々に、時には猛烈に感染者は増え続けている。非日常が日常へと変わりつつある。恐ろしいのは忍び寄るものに影がないことだ。

 

 先月後半に定住革命から疫病と人類の関係性をまとめた記事を書いた。最近、読み返して見て「ああ、必死だったんだなあ」という何とも言えない気持ちになった。日常が刻々と変化していく矢先、何もできない自分のもどかしさにストレスを感じていた。「今はそんなことないのか」と問われれば、もちろんその答えはNOである。外出自粛で家族、友人に会えるのに会えないという辛さ。メディアから日々更新され続けるコロナウイルスのニュースにもうんざりしてきている。ウイルスが蔓延る前に、このままでは僕たちの精神の方が朽ちてしまうのではないか不安になる。ストレスは溜まる一方だ。

 

 家に篭っているとゲーム、映画観賞、読書、料理、音楽聴きながら口ずさむことぐらいしかすることがない。どうやってこの暇を潰そうかと考えるのすらかったるくなって、ただゴロゴロしてみたり、ただゴロゴロしている。パスカルも「人間のあらゆる不幸はたった一つのことから来ているという事実を発見してしまった。人は部屋の中にじっとしたままではいられないということだ」と言っている。

 

 まあ、なんやかんや言ってもネガティヴでなままでいることも、しんどいので感染症について調べてみたり、好きな哲学に救いを求めてアカデミックな文章に目を通してみたり、自分なりのストレス解消に勤しんでいる。ペスト流行時に、ニュートンは故郷でニートをしていた。その日々の中で、微積分法や万有引力の基礎概念を発見した。僕は残念ながら彼のような不世出の天才ではないので、ぼんやりとした日々から途方もない概念を生み出すことなどできない。しかし、日々の過ごし方として「創造的休暇」というのはちょっとかっこいいなと思ってしまう。だからまあ、拙くても文章を紡いでみようと思ったわけである。今回は、そんな「創造的休暇」満喫中の僕が読んだ文章の中から最も感銘を受けた藤原辰史さんの記事を紹介しつつ、自分が今考えていることをまとめてみたいと思う。

 

藤原辰史「パンデミックを生きる指針」を読んで

 

 環境史、農業史を専門としている藤原辰史さんがB面の岩波新書に寄稿した文章。要約するところなどなく、余すことなく全ての文章に目を通す「べき」とも言える。人文系の底力を感じたというか、今の時代にこそこうした教養の深さ、先見の明が必要であると実感した。要点を絞ることは難しいのだが、ポイントを三つに絞ってまとめてみたいと思う。

 

⑴事態を冷徹に考える必要性

 これは、恐らく多くの人に当てはまると思うし、自分もそうなのだが、人はしばしば輪郭のはっきりとした危機よりも、遠くのぼやけた希望にすがりがちである。「ワクチンは一年後、遅くても二年後には完成し、実用化に至る可能性がある」「事態は来年までには、終息するから来夏までにはオリンピックを実施する予定」。どれも根拠が不確かな、そしてはっきり言ってしまえば現実味のない文言である。世間にはそうした文言が溢れ、メディアは日々そうした情報を更新している。そして、そうした希望的観測に一喜一憂してしまうのが、残念ながら人間という生き物の性なのである。こうした文言の源泉は裏付けのある事実などではない。人間の願望だ。「こうであってほしい」という思いが、知らない間に根拠のない希望的観測として反映され垂れ流れてしまうのだ。

 歴史を省みても、こうしたことは毎回起きている。あらゆる危機に際して、メディアや為政者は安易な希望論や道徳論、精神論を述べ人々の判断能力を鈍らせてきた。「戦争はクリスマスまでには終わる」と100年前も同じことを人間は言っていたわけである。

 だからこそ、僕たちは冷徹に事態を捉える必要があるわけである。確かに、事実に向き合うのは辛い。毎日更新され続ける感染者や死者の数字、とても冷静に考えたとは言えないような行政執行者の政策等、暗いニュースは多い。しかし、そうした事実に向き合い、考えることを辞めない姿勢が、今の私たちには求められている。「諦めたら、試合終了だよ」と安西先生が言うように今「考えることを辞めたら、試合終了」なのである。

 

⑵緊急事態宣言について

 コロナウイルスが社会に浸透するにつれ、多くの人が政府に対して早く緊急事態宣言を出し、事態を治めるように求めた。

 冷静な人ならこれがどれだけ異常なことかよくわかっているはずである。コロナ禍で人の判断能力が鈍っている一例と言えるかもしれない。

 批評家の東浩紀さんが「AERA」の巻頭エッセイで、こうした問題について述べている。

 緊急事に際して、人間を家畜のように監視する生権力(仏の哲学者フーコーの概念で、人間を家畜のように捉える権力)がまかり通っていると東さんは述べている。生権力は、政治的に中立な態度をとるので、その抵抗には細心の注意を払う必要があるというのが常識だった。しかし、現在の状況を見れば、そうした常識がすでに吹き飛んでいるのは明らかである。感染拡大防止という「絶対善」を建前に、常時では考えられないようなプライバシーの侵害が起きている。コロナ禍の恐怖の中で、人々は自由や人権についての議論を放棄しつつある。

 非常時なので仕方ないというのも当然ある。その点に際して、東さんは問題が二つあると述べている。一つは、この非常時はいつ終わるのかわからないということだ。緊急事態がが終わらなければ、当然僕たちへの監視は続く。それは一体いつになるのか。二つ目は、コロナ以後、すなわちポスト・コロナの社会のヴィジョンが語られていないことだ。このウイルスは人類を滅ぼすほど強力なウイルスというわけではない。多くの人は、この先も生き続ける。だからこそ、僕たちはこの先を考えなければいけない。マスコミは、命か経済と選択を迫る記事が多い。しかし、真の選択は現在の恐怖と未来の社会の間にある。

 東さんが考えるように、僕たちはこの事態を真剣に考える必要がある。なぜなら、「構成員に情報を隠すことなく提示し、異論に対して寛容で、きちんと後世に文書を残し、歴史を尊重し、自分の過ちを部下におしつけたり少数意見を弾圧しない、研究教育予算に税金をしっかり当てることのできるリーダーがいる」政府が緊急事態宣言を出したわけではないからである。

 為政者がこの手の宣言を国民の生命の保護という目的を超えて、利用した例は世界史に溢れている。藤原さんは「どれほどの愚鈍さを身につければ、この政府のもとで危機を迎えた事実を、楽観的に受け止めることができるだろうか」と述べている。

 

⑶歴史の中の感染症から何を学ぶか

 過去にも人類は数多の感染症に苦しめられてきた。ペストや天然痘SARSエボラ出血熱など、時代を問わず僕たちの傍には常に感染症の影が付き纏っている。藤原さんは、感染症の歴史の中でも、特にスペイン風邪は今回のコロナ禍を考える上で参考になると述べている。

 スペイン風邪は、百年前のパンデミックアメリカを震源とするインフルエンザだ。1918年から1920年までの間に三度の流行を繰り返し、少なくとも4800万人、多くて一億人の人々が亡くなった。これほどの人が亡くなったのには、戦時中に伴う情報統制や衛生環境の悪さがあるだろう。また、このパンデミックでのウイルスの運び屋が兵士であったのに対し、今回のパンデミックの大きな要因はオーバーツーリズムによる人の移動だと考えられるように、異なる点もある。共通点は、どちらも世界規模で、どちらも初動に失敗し、どちらもデマがとび、著名人が多数死んだことなどだろうか。

 藤原さんは、スペイン風邪から得られる教訓を8項目に分けている。以下の通りである。

 

①感染は一回で終わらない。

②体調が悪いときに無理しない。

③医療事業者に対してのケアを忘れない。

④情報の開示を行う。

⑤歴史的な検証を行う。

⑥政府も民衆も感情によって理性を失う可能性を忘れない。

医療崩壊のみならず清掃崩壊を起こさないようにする。

⑧行政執行者の感染によって、行政手続きが疎かにならないようにする。

 

 個人的には⑧が、大事であると自分は思っている。行政執行者が感染に倒れた場合、船頭を失った政府が冷静な判断を下せるとは考えづらい。スペイン風邪が流行った当時、アメリカのウッドロー・ウィルソン大統領は四カ国対談の最中に発熱で倒れた。彼が病院に入院している間に会議の流れが変わり、ドイツへの懲罰的なヴェルサイユ条約の方向性が決まってしまった。その後、歴史がどのように動いたかは歴史の教科書を見れば一目瞭然である。

 

 スペイン風邪からの教訓の他にも、感染症史から学べることはある。例えば、大きなパンデミックの後には、社会やそれまで機能していた制度が大きく変化するということである。ペストの大流行を経験したヨーロッパは、そのご大きく変化した。労働力の減少が賃金の上昇につながり、農民の流動化に伴い荘園制度が崩壊した。教会の権威は失墜し、国家という体制が人々の意識に芽生え始める。人材の払底によって既存の制度では登用されなかった人材が登用されるようになった。結果として、新しい思想や価値観をもとに社会の枠組みが構想されるようになった。

 東さんが、先の社会のヴィジョンを考える必要があると述べいてたことに繋がるが、歴史が示唆するように今後僕たちの社会は大きな変革を迫られることになるだろう。

 

今、何が最も重要なのか

 

 ここまで藤原さんの文章の要点を探りながら、今考える必要があることについて書いてきた。もう随分と書いたので、この辺りでまとめに入りたいと思う。

 すなわち、現在のコロナ禍に際して、僕たちは何を最も大切にしなければいけないだろうか。人それぞれの答えがあるのは、もっともであるが、僕なりの答えを提示しておきたい。それは「思考を止めたり、放棄しないこと」。これが、いくつかの記事や本を読んで僕が導いた結論である。

 あまりにも簡潔で当たり前のことかもしれない。しかし、僕は感じるのである。この非常時に際して、事実と向き合わずに逃避しようとしているもう一人の自分を。ゲームの世界に身を沈め、不快なニュースはミュートする。そんな自分が確かにいる。希望的な観測に期待を抱いてしまう醜い弱い存在。だからこそ思うのである、苦しくても、辛くても、悲しくても、向き合って明日を考えなければいけない。

 最近、B面の岩波新書が更新され根本美作子さんの記事が新たに加わった。彼女はピエール・パシェというフランスの作家を研究している方である。記事の中で、根本さんはピエール・パシェの「個人というものの重みを損なうことなく、個人個人がみな同じたんなる一人の人にすぎない」という思想軸の点から、想像力を鍛え上げる必要があると述べている。すなわち、一人一人が、首相、介護士、学生、父親であったりする以前に、新型のコロナウイルスに感染する一人の人間にすぎないということを実感するところから始めなければいけないと。物理的な距離はしばしば、精神的な遠近を生んでしまう。コロナ禍で、あらゆる差別が浮き彫りになっているのがその一例だと言える。アジア系への偏見、医療従事者やその家族に対しての差別的視線、そのいずれもが想像力と思考の欠如によって起きていることは明白だ。僕たちは、僕たちが遠さや近さに関わらず一人の「脆弱」な存在であることを思考のスタート地点に据え置きながら、考え続けなければいけない。

 「健康と病気は、生物学的、文化的資源をもつ人間の集団が、生存に際し、環境にいかに適応したかという有効性の尺度である」。これは「病気」に関するリーバンスの定義である。これによれば、病気とは、人が周囲の環境に適応できていない状況のことである。僕たちはまだこの「非常」に適応できていない。病気にかかっている。この病を治すには、不断に変化する状況の変化を冷静に観察しながら、思考を止めないことが大切だ。想像力と思考の深さ・広がりの先にこそ光明があると、僕はそう思うのである。

 

参考文献

山本太郎感染症と文明ー共生への道』岩波新書、2011年

www.iwanamishinsho80.com

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