言葉と環世界と人生〈「メッセージ」を考える〉

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恋人が家に来る。特別に何か用があるわけでもないのでお菓子と飲み物を用意して映画を見始める。暗くした部屋で映画の音のみが空間に反響し、恋人の顔にはテレビ画面の明かりがチラチラとよぎる。画面を観る眼差しの出発点には栗色の美しい瞳が輝いている。その瞳を見つめていると、眼差しのベクトルが変わり視線が交錯する。その時思うのである。彼女には何が見えているのだろうか。どんな世界が彼女をという一人の人を取り巻いているのだろうか。今何を考えているのだろうか。「何?」と聞いてくるのを適当にはぐらかして再びテレビの画面を見つめる。

 


ドイツの生物学者ヤコプフォンユクスキュルは、環世界という考え方を提唱したことで名高い。生物はそれぞれ固有の知覚によって世界を認識するため、世界は客観的ではなく、主体的に構築されているというものだ。彼の代表作「生物から見た世界」にはカタツムリやダニなど様々な生物が構築する世界像が語られている。例えばダニは視覚と聴覚がない。ダニが知覚できるのはダニが飛びつく哺乳類が発する酪酸と呼ばれる物質の匂いと哺乳類の体温のみなのである。私たち人間には想像もつかない世界がそこには広がっている。

 


今年の元旦に古い友人の家にお邪魔した。彼は既に結婚していて新居で奥さん、娘さんの三人で暮らしている。玄関が開き久しぶりに見た彼の顔が、父親の顔になっていたのには驚いた。まだ2歳にも満たない小さい娘さんと友人、彼と彼の奥さんで短い時間ではあったが楽しい時を過ごした。短い時間の中での話題の中心はやはり子供だった。子供の誕生は、人生でも大きな転換の瞬間だろう。ドミニク・チェンは娘が生まれた瞬間に「はじまり」「終わり」が一緒に訪れたような感じがした、と述べている。僕は、まだその瞬間を経験していないからわからない。いつかその時が来るのかもわからない。生命の誕生がもつ意味、ひとつの世界がはじまるというその瞬間に立ち会うということがどれほどのものなのか。彼の父親らしい顔つきがその答えなのかもしれない。

 


昨年の一月に母方の祖母が亡くなった。大学の卒業論文を提出し、卒業も決まり、春から社会人というその矢先での出来事だった。結局、祖母は私が働きはじめてからの姿を見ることなくこの世を去っていった。十年ほど前に倒れ、それ以降入退院の日々を繰り返していた。最後は介護ホームで余生を過ごした。死の一週間ほど前に体調が悪化し、医者からはいつ逝ってもおかしくないと言われた。ある夜、病院から電話がかかってきて、すぐに病院に駆けつけた。苦しそうに呼吸をする祖母を前に何も言葉が出なかった。ただ手を優しく握ることしかできなかった。呼吸のテンポが緩やかになり、祖母は静かに逝った。

 


人の死を見たのは初めてだった。「生きているもの」が「生きていない」ものへ変わる時、その差異は明らかである。有機物が無機物に変わるようなそんな感じだ。「生き物」から「モノ」になったとその時思ってしまった。それは別に悲しさを感じなかったとかそういうことではなく、ただ事態としてそういうような瞬間を経験したということに過ぎない。人の死、命の灯火が消えるということはひとつの世界が幕を閉じるということに等しい。

 


人生とは「悲しみ」「愛しさ」「悔しさ」、沢山の名前を与えられた感情、無限大のクオリアを空間と時間の流れの中で経験していくものである。それは「流れ」というだけあってベクトルのある直線的な在り方を想起させる。今日が昨日になり今日が明日になる。細かいことを気にせず日々を生きていれば、私たちはレールの上を歩いているだけのように思える。ただ本当にそうだろうか。

 


過去とは、記憶と記録の中にしかない。今はもう存在しないものだ。未来は存在しない。頭でこねくり回して想像してる淡い想像の断片は想像の域を出ない。在るのは今この瞬間だけだ。

 


生物の成長やモノの腐敗を見た時、私たちはそこに時間が流れたという印象を受ける。しかし、時間が流れたから成長したり腐敗するのではない。事象はそれとして変化を起こしただけである。私たちがそこに時間の流れを見るのは私たちが成長や腐敗を時間の流れと轍を共にすると思っているからである。

 


時間という概念は概念でしかない。そして直線的に進むという時間のイメージも私たちがそう考えているにすぎない。ではもし、その概念のイメージを覆す別の時間概念が存在したら。「未来」「過去」「現在」を共時的に考える別の時間概念を獲得したらどうなるだろうか。私たちが人生の中で感じる様々な事象がもつ意味は変わるのか。

 


冒頭で私は、「愛情」「誕生」「死」をとりあげた。これらの事象・感情はライフイベントにおいて大きな意味をもつものである。そしていずれも「いつ起きるか」「誰が関わるのか」わからない。しかし、共時的な同時的認識様式を手にした時、それぞれのライフイベントがもつ意味は大きく変わるはずである。その時、私たちはどのように生きるのか、どのように人と関係を築くのか。

 


映画「メッセージ」は、ルイーズという言語学者の人生の物語である。ヘプタポッドと呼ばれる地球外生命体と言語学者のルイーズはコミュニケーションをとりながら彼らがなぜ地球にやってきたのかを探ろうとする。彼らの言語に触れ、理解を深めていく中で、彼女は新しい認識様式を獲得していく。それが彼女にとって人生の意味を問い直すきっかけとなる。

 


「言語に触れながら、新しい認識様式を獲得する」という言葉だけを聞くとサピアとウォーフが提唱した言語相対仮説が思い浮かぶ。実際、劇中にもその言葉は出てくるし、原作者も言語学についてそれなりに調べていることが伺える。学問的な目線から言えば、なかなか論争の的になるもので厳密なことを言うと映画で説明されるようなイメージとは異なるかもしれない。しかし、その仮説が部分的にであれ納得がいくものであることはわかる。私たちが最初に獲得する母語に強い影響を受けていることは自覚できる。例えば、車に向かって歩いている人の写真をアメリカ人とドイツ人に見せた時、多くのアメリカ人は「人が歩いている」と答え、多くのドイツ人は「車に向かって人が歩いている」と答えるらしい。これは英語がある状況において人の動作に着目しがちなのに対し、ドイツ語がある状況の全体的な描写に着目するという言語上の差異に起因する。すなわち、これは同じ状況を見ていても言語が異なるだけで見え方が異なるということである。

 


メッセージではその言語相対仮説をより極度な展開に持ち込んだと言える。すなわち、ヘプタポッドと呼ばれる地球外生命とのコミュニケーションによって新しい言語的視野を獲得したルイーズがヘプタポッドの同時的時間概念を獲得し彼女の時間認識そのものが大きく変容する。彼女は「未来」「今」「過去」と繋がれるようになる。彼女はその時間認識によって未来と繋がり、人類を明るい未来へと導くことに成功する。

 


これだけ聞くと「超能力を手にする」というSFにありがちなストーリーだと思われるが、そこに留まらないところがこの映画の魅力であり、もっとも考えさせられるところなのだ。

 


映画序盤から中盤にかけて、ヘプタポッドとの接触を重ねるたびに彼女が今まで得ていた逐次的時間認識がエラーを起こし始める。娘と遊ぶ自分の姿など未来が見え始めるのである。彼女は物語の終盤で自分の脳裏に浮かぶ映像が未来であるということに気付き、それが引き金になって物語が動き始める。

 


注目すべきは彼女の先の人生が明るいことばかりではないということだ。夫と別れることになるし、娘は10代半ばあたりで難病にかかり亡くなる。映画進行時点ではまだ結婚もしていないし、娘も生まれていない。

 


映画の最後でルイーズは自分の未来について決断を下す。私たちがその決断を見守りながらエンディングロールが始まる。

 


もし、私たちがルイーズのように共時的に時間を認識できるようになってしまったら、私たちは未来に対してどのような決断を下すのだろうか。例えば、20代半ばで結婚。双子の子供が生まれるが1人は小児癌にかかり闘病の末亡くなる。妻は子供を失ったショックで物が食べられなくなり拒食症に。仕事は順調だったが、40代半ばで感染症が流行し、その影響で会社は倒産等々。このような未来が見えていたら、どのような選択をするだろうか。敢えて悪いことばかりピックしたが、当然喜ばしいこと楽しいこともあるだろう。最愛の人と結ばれたこと、子供の誕生、仕事での成功。人生は、プラスにもマイナスにも大きくふれる可能性に満ちている。もしその全てが見えてしまっている時、私はそれをどう捉えて前に進めるのだろうか。

 


「未来が見えてしまったら」という思考実験の面白さ、そして言語がもつ可能性をメッセージは私たちに伝えてくれる。しかし、私がそれ以上にこの映画から学んだことは、人生についての考え方である。

 


断章で述べた環世界は、類や種といった大枠のカテゴリーに当てはまるものではなく生物の個体ごとにそれぞれの環世界があることを示唆している。映画ではルイーズの環世界が画面いっぱいに映る。

 


彼女のライフイベントを見つめていると、改めて人生とは予期せぬ出来事に満ち溢れているものだと感じる。「もしあの時、ああしてたら」というフレーズは後悔に付き纏うものだが、それは「だったかもしれない」という帰結にしか終わらない。僕らは運命という誰もが知り得ないレールの上を綱渡りで進んでいる。歩んできた道は見えても、これから歩む道は見えない。ただ無数の足跡が残されているだけである。

 


挫折や失敗は生きていれば、誰しもが味わうものだ。自分もつい最近、精神の未熟さを痛感する出来事に遭遇したばかりだ。空虚感、自分という人間の醜さを垣間見て、反吐が出そうになった。自分がこれまで歩んできた道を否定するわけではないが、何か間違ってしまったんじゃないかと考えずにはいられなかった。実際、間違っていることもあっただろう。

 


壁にぶつかって砕け散った脆い精神が今もなんとか踏みとどまっているのは、未来への希望を捨てないルイーズの姿勢に強く励まされたからである。彼女は全て知っている。これからの悲しみも幸せも、全てである。それでもなお、来たる悲しみに向き合うことを決め、来たる幸福を存分に享受しに歩み出すのだ。僕は、僕らはまだ何も知りえない。これからの悲しみも幸せも、全てである。それならば淡い希望にすがって明日を生きるのも悪くはないのではないかと思う。可能性は残されている。

 

 

 

 


映画に励まされるなんてことがたまにある。厳しい世の中ではあるがへこたれずに生きていきたい。