長い独り言〈情報と如何に付き合うか〉

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 最近、Twitterを辞めたいと思った。「やめればええやん」というそういう話なのだが、そう思った理由がいくつかあるのとそのきっかけについて少しばかり共有できたらなと思ったので、まとめておく。

 


 まず、やめたいと思ったきっかけは池田エライザさん。唐突すぎて意味がわからないと思う。まあ、端的に言うと、コスモポリタンという雑誌でのインタビューでエライザさんの述べている言葉に色々考えさせられたからだ。

 


 「好きなものを突き詰めたい」という見出しの下に続くインタビューの内容は、彼女の私生活での変化と作品にそれがどう反映されていくのかというものだ。その記事の中間辺りで、彼女が今年の6月半ばにTwitterを辞めた理由について書かれている部分がある。

 


 彼女がTwitterを辞めた理由は主に2つだ。ひとつは、情報に対して受動的になってしまうということ。もうひとつは、「(SNSには考えの)変化の過程を想像するような余裕がない」というもの。自分が特に気になったのは後者。なぜなら、この言葉がSNSと私たちの関係性を鋭く突いている言葉だからだ。

 


 私たちが言葉を投稿する時、その言葉はリアルタイムで即共有される。その時、「言葉だけ」が共有された相手に現前する。それを見た人は、その言葉から相手の考えていることを見出し、読み解く。ただしその時、その言葉の背景がどこまで想像でき得るだろうか。どういう表情でその言葉を発しているのか、どんな境遇の中で発せられた言葉なのか、そしてそもそも本心なのか。

 


 バズっている投稿のリプ欄を見ると、現前している言葉のみに反応しその場限りの正当性を主張しているアカウントをよく見かける。「SNSなど所詮ゆるく広いつながりの中にあるものなのだからしょうがない」と言われれば確かにその通りなのかもしれない。それは否定できない。

 


 ここでもう一度エライザさんの言葉を振り返ってみよう。「思考の変化の過程を想像する余裕がない」とはすなわち上のような状況を指す。SNSに吐き出さられる言葉に対しての主張や批判はその場限りのその言葉に向けられる。そこには思考の前後のコンテクストを想像する余裕がない。その場で正当性を出すことが求められている。なぜなら、言葉の正当性を検証するだけのエビデンスを即時にかき集めれば、その言葉への批判や主張は簡単にできると「思われているから」である。

 


 現代社会は情報社会となり、あらゆるものが様々な媒体を通して記録されるようになった。昔と違って、何かを検証するためのエビデンスは集めやすくなったのだ。しかし、エビデンスを集めやすくなっても事実を見出すことは非常に難しい。なぜなら、エビデンスが持つ可能性の「含み」にはどうしても主観的な解釈が入り混じるからだ。この事実を認知している人、そしてそれを見越してものを考えることができる人がどれだけいるだろうか。社会には「エビデンスがあるからどんなことも検証可能である」という言葉だけがひとり歩きしている。

 


 ここでさらに問題となってくるのは、歴史である。エビデンスが多く集まっても結局は主観の入り混じった歴史が書かれるとは、歴史学を学んだことのある人なら誰でもわかるようなことだ。なぜなら、歴史を記述する歴史家自身が現在というやがて歴史となるものの中に包摂されつつ、そして個人の境遇という歴史を抱え持つひとりの人間だからである。

 


 ただ、この事実を一般の人間が知ったらどう思うだろうか。絶望するんじゃないだろうか。ちなみに自分は一度絶望した。義務教育の中でさもこれが事実というような語り口で、歴史は教えられる。しかし、その語りはどこまでいってもやはり編者の語りである。歴史は客観性を常に第一におきながら恣意的でもある。

 


 これを知ってしまうとものを信じられなくなる。というより、事実を求める議論が無意味に思えてくるからである。「人それぞれの解釈でいい」、だから議論しても無駄。真理は存在しない。そうなると大きな物語をつくり、連帯することが非常に難しくなる。なぜなら、その考え方は利他性の皮を被った究極の個人主義だからである。人のことを想っているのではない。人に関心がないのだ。そして他人も事実も信じない。

 


 「信じる」という言葉は、時間の含みを持つ。なぜなら現前しているものにただ「了解する」だけでなく、現前しているものの前のコンテクストに留意しつつ、後に続く文脈を意識し続けるものだからだ。だから「信じる」には時間が必要なのだ。そうエライザさんが言うような「余裕」が必要なのだ。

 


 SNS、特に言葉が主体となるTwitterにはこの「余裕」が明らかに足りていない。そして、私たちは今まさに「信じる」ことを失いつつある。溢れかえるリプ欄の主張を見れば、何が真実なのかわからなくなる。そして真実を求めようとすればするほど、真実など存在しないことがわかってしまう。それでも社会、メディアはゲリラ豪雨の如く大量の情報を浴びせかけてくる。そしてそれに疲れた私たちは、思考するのを辞めて、自分の都合の良いように解釈して言葉を紡ぎ始める。現前し続けるものを大喜利のお題のように考え始める。

 


 その結果がコロナ禍第二波に対しての人々の動きである。最初に比べて感染速度も明らかに速くなっているのに、人々は移動をやめない。自粛に対する考えもどこか「まあ、大丈夫でしょ」という雰囲気がある。人々は情報にうたれすぎてすぐに忘却してしまうのだ。万が一感染した時、大事な人を死なせてしまうかもしれないという感覚を2ヶ月前には確かに持っていたはずなのに。何も信じられないが故に自分しか信じないから。

 


 ここ最近ずっともやもやしていた。常に頭に霧が渦巻いているような感じだ。そしておそらくその原因が情報の浴びすぎ。人一倍情報の摂取には貪欲なので、あらゆるSNSを情報収集のツールとして使っていた。以前ならタイムラインに上がってくるニュースも「色んな解釈があるよね」で済むものが多かったが、最近はそうではない。正確に判断し、行動しなければ自分自身に害を被るだけでなく、他人にも迷惑をかけるという情報が多すぎる。そして、正確に判断しようとすればするほど沼にはまり、抜け出せなくなる。実際、沼にはまることは多かった。

 


 その時にであったのがエライザさんの言葉だった。そして、SNSを情報収集のツールとして使うことは自身にとってあまり良いことではないということに気づいた。彼女の言葉の前半は情報に対する「態」の話だった。「情報収集のツールとして使っていた」といえば聞こえは能動的だが現実は「情報にうたれていた」のであり、自分の態度は受動的なものだった。

 


 情報に対しては能動的に自ら動かなければいけない、尚更言葉やアートを通して表現する者はそうあるべきだ、というのがエライザさんの第一の主張。そして、情報から紡ぐ思考に対してはその前後のコンテクストを通して省みる「余裕」が必要だというのが第二の主張である。

 


 そして、上述の考えから導き出された自身の帰結は情報収集のツールとしてTwitterを使うことをやめるというものだ。タイムラインは基本見ない。書籍情報の通知とラブリーサマーちゃんの通知だけONにしてチェック、それ以外の用途には使わない。言葉の発信はブログのみにする。

 


 こんな意気込みみたいこと書いて、なんやねんという話なのだが、今一度SNSの使い方を考えてみるのもいいのではないかという問題提起の含みを持たせて書いたつもりだ。

 


  情報に飲まれて自分を失わないように。もう一度「信じる」を取り戻せるように歩んでいきたい。