「操欲」の思想ーエピクテトスを訪ねる<「手綱」としての哲学>

f:id:apollomaron-apo5w:20201101121705j:plain

 

 

はじめに

 最近、自分の過去反復反省が過剰だということに気がついた。端的にいうと向いている方向が、めちゃくちゃ後ろ向きなのだ。こういう状態だとまず事故る。当然だ。マリオカートを後車確認視点で完走できるやつなんかいない(一部の化け物を除いて)。

  過去に目を向けながら生きることは大切だが、身体の向きまで後ろ向きになる必要はない。マリオカートが上手い人間は、後車の動きをチラ見しながら走り切る人間だ。だとして、未来に目を向けて突っ走ればいいかというと、それはそれで悩んでしまう。変化の激しい現代社会に適応していくのは至難だ。無防備に突っ走れば、それはそれで事故る。社会に適応しながらしっかりと自分の道を歩むために必要なことは、自分が歩む道を決めるための基準のようなもの、自分自身のルールである。そこで、僕はそれを「手綱」としての哲学(仮)として終生の課題とすることにした。

 この営みは、社会生活や自分自身に伴う行動の指針を考察していく完全オリジナルの哲学となる。体系的にまとめていくつもりだが、それらは常に可変的であり、社会の変化や自身の様態に伴って随時アップデートされていく。このブログへの投稿(「手綱」としての哲学が題に付される記事)は、主にその断片と体系化されたものの一部となる。


吉川浩満山本貴光『ローマの大賢人の教え その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。』筑摩書房、2020年のまとめと感想をもとに考察した断片メモ。概ねのプロットは本書の順番で進行している(途中カットした部分あり)。本稿そのものは「手綱」としての哲学を考察するためのメモとして自分が書きとった断片を再構成したものである。本書の内容とそれに付随する文献の資料等は黒字表記、自身の感想や考察は赤字表記となっている。尚、本書と参考文献は末尾に付した。

 

序章

・人生どう生きるべきか(どうしたら幸せになれるか)という悩みは、古今東西尽きない悩みの種であり続ける。

・古典を読み漁る中で、著者らはエピクテトスという哲学者に出会う。

 

エピクテトス

>1900年ほど昔、帝政ローマの時代に奴隷の子として生まれ、哲学者(ストア派)になり、後に自由の身となる。(波乱万丈)。著作は残さなかったが、弟子のアリアノスが彼の言葉を後世に残した(『人生談義』)。これが後世に伝わり、ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスから夏目漱石に至るまで、様々な人に影響を与えた。

エピクテトスの考え方「自分の権内と権外を適切に見極めよ」ということ。

 

プロローグ

・『人生談義』は、日常の悩みについて語られたもの。

・現代の状況からして、社会にしても個人にしても希望を抱くことが難しい社会になりつつある。そんな世の中で自己啓発の本が流行るのは当然のことかもしれない。しかし、巷の啓発書を開くとそれぞれ全く違うことが書いてあったりする。困惑に続いて何を信じればいいのかわからなくなりさらに不安が募る。

エピクテトス自己啓発の元祖(オリジネーター)のような存在。

・要所は、彼の哲学が誰にでも使える知の技法であるということ。理に基づいて考える力があるなら誰にでもできるという点。「君には一体何ができるのか?」という問いを、その人なりに考えられるようにする方法を教えてくれる。

 

人生談義』の世界、悩みのカタログ

>問い「先生、どうして私が首を斬られなければいけないのですか」

・・・ネロ帝の治世は前半は善政と呼ばれたが、後半は非常に物騒な時代になっていった(恐怖政治)。皇帝の蛮行や度重なる戦争に塗れた時代、理不尽な刑罰なども当然あったはず。その点、この問いは当時の人からすれば切実な問題だったかもしれない。

>回答「じゃあ、みんなが首を切られたらいいと思うのか?」

・・・この文は修辞疑問「君だけが首を切られなければいけない」も「みんなが首を切られたらいい」もどちらバカバカしいほど不合理な主張。言葉の真意は、そんなこと悩んでも仕方ないことだということ。他に考えるべきことがあるのでは?次章へ

 

エピクテトス哲学の根本原理(権内と権外の区別)

考えるべきこととは「権内にあるもの」と「権外にあるもの」の区別

>「権内」・・・自分でコントロールできる。

>「権外」・・・コントロールできない。

その区別が、重要な理由は積極的な理由と消極的な理由に分けられる。

消極的な理由・・・私たちの悩みはこの区別に対する混乱から生じる。自分でどうにかできることに目を向けず、どうにもできないことばかりに拘ってしまう(イライラして心が休まらない舟の乗客のたとえ)。

・消極的な理由から問答を考えるとして、もし質問者が刑場にしょっ引かれる寸前ならば、誇り高く死の運命を受け入れるしかないとエピクテトスは答えるかもしれない。しかし、質問者は教室で彼に相談している。すなわち、刑の執行までにはまだ猶予がある。それならば、「権内」と「権外」の区別についてしっかりと考えることができる。その猶予を活かして悩みに対処しなさい。という感じ。

積極的な理由・・・両者(権内、権外)を適切に区別できている状態は、人間にとって最も幸福な状態であり、私たちが目指すべき最善の状態だから。

>結論・・・時代や場所、人によって、境遇の過酷さの程度や種類は異なるが、私たちがすべきことは、自分がコントロールできることに十全に力を使い、自分ではどうにもならないことに対して思い煩わないこと。そして、この状態を目指すこと。

 

コラムの要点

エピクロス・・・エピクロスの主張はいかにして心の平安(アタラクシア)を得ることができるか。彼はこれに世界の仕組みを知ることだと答えた。(余談だが、自分はエピクロスの考えを自分の学びの力点として常に考え続けてきた。断片中にはとても美しい言葉も沢山ある。「われわれが必要とするのは、友人からの援助そのことではなくて、むしろ援助についての信なのである」という言葉は心に刻まれ続けている。)

懐疑派・・・「懐疑主義」を意味する英語の語源は、ギリシア語の「スケプシス」に由来し、元来考察を意味する。古代ギリシアの哲学者たちは、「スケプシス」を幸福に至る最重要の方途として、極めて肯定的に捉えていた。例えば、ソクラテスは問答法を用いて、自らの無知を悟らせ哲学的考察へと促す活動にその生涯を捧げた。中世哲学は、それをディアレクティカとして継承した。この方法はある立場Aに対して、それと相反する立場Bを対置し、より高次のCに至ろうとするものだ。その際に無知の自覚を貫けば、Cに対しDを対置できる。こうして過程は無限に続く。

 結論に至りえぬ「スケプシス」は幸福をもたらし得るか。この点に明確に答えたのが懐疑主義の代表的論者、「ピュロン主義」のピュロンだ。ピュロン主義は、確実な「知」への拘泥ではなく「判断保留」こそが、アタラクシアへの道だと主張した。6世紀の懐疑主義者セクストスはこれを受け、思考の全てを「現れ」の次元に留め、その現れに別の現れを対置することで、現れをそれ自体として受け入れることを主張した。その考えは、近世のデカルトなどにも影響を与え、彼の「方法的懐疑」にも反映されている。その影響をより広い幅で捉えるなら、懐疑主義は現代の精神医療や認知医療の領域に影響を与えているとされる。(個人的に思考方法に共感できる部分があるが、現代においてなんでもかんでも判断保留するのは情報過多の点からしてあまり好ましくないように思う。判断保留の思考様式をは採用するとして、何を判断保留の下に置いて考察するかが求められる。だとすればその「何を」を決定する力こそが、エピクテトスの権内・権外の考えだと言えないだろうか。)

なぜ、今、ストア派なのか?エピクテトスなのか?

・・・知識社会という現状。大量の知識・情報を浴びながら生きていかなければいけない。降りかかってくるものには不純物も多い(真偽が不明なもの多数)。そうした社会と共生していく上でストア派の考える哲学は実用的である。

 

理性を働かせよ

・人は種々の能力を持っているが、そのほとんどは「自分を考察するものではない」。例えば、「読み」「書き」の能力は技術的なものにすぎず、「何を読むか」「何を書くか」にまでは至らない。この「何を」について考える力こそ理性的能力と言える。

>理性

・・・ざっくりといえば「物事を判断する能力」(『語録』では「デュミナス・ロギケー」と書かれている)。自分自身についても考られる唯一の能力。権内・権外の区別もこの論理に支えられている。

・・・エピクテトスはこの理性的能力に基づく中で「心象の正しい使用」のみが自身の権内にあるもので、それ以外はないのだと言う。(「心象」・・・意識に浮かぶ象、印象など)

・・・「心象の正しい使用能力」とは「意欲と拒否、欲求と忌避の能力」と言える。外界だけでなく、自らの心象とも対峙しなければいけない。心に現れる激情に動揺せず、まず「吟味」し、考え抜くことが大事。

 

コラム

エピクロス派はアタラクシアへ、ストア派はアパテイアへ。

>「ある」ではなく「ない」を求める哲学。個人的には、それは人間の恒常性に向かう哲学だと考える。それは、生物の生体反応がそもそも恒常性へ向かうという物理的事実に即すものであり、極めて論理的。近代以降の身体と精神を分かつ哲学にメルロ・ポンティやドゥルーズが身体と精神を貫く哲学を構想したが、エピクロス派やストア派の哲学にもそのような傾向を見て取れる気がする。物心の二元的な区別を構想せずにいたというだけかもしれないが、その哲学は決して身体と精神を分けず、お互いを不可分とするものとして考られ、その先に宿ったものだと考えて良いと思う。また、新興の学問(認知心理学行動経済学等)が想定するファスト思考とスロー思考を兼ね備えた人間像にもこれらの哲学は近似的と言えるだろう。

 

哲学の訓練

エピクテトスは心象の現れを否定しない。現れる心象をよく吟味することが大切だと説く。そしてその吟味がそのまま哲学的なトレーニングとなる。

『語録』第3巻第2章「進歩しようとする人は何について修行せねばならないか、およびわれわれは最も大切なことを疎かにしているというついて」

心象の領域区別

1、欲望の領域・・・何かを欲望して得損なうことのないように、何かを回避しようとしてかえってそれに陥ってしまうことのないようにするための領域。

2、義務についての領域・・・秩序正しく、合意的に行動し、不注意に行動することのないようにするための領域。

3、承認についての領域・・・騙されたり、煽てられたり、そういう人間関係で失敗しないための領域。

>緊急を要するのは、第一。この領域の心象は激情を喚起するから。

第一領域と他二つの領域は、それが外界の事象から内面を律するものか、それとも内面から起こるものに対して内面から対処するかに分けることができるだろう。エピクテトスが注意喚起するように、第一領域の欲望はその多くが内面から出るものである。そして内面から滲み出るものは生理的な欲求なので生体的な重要度が高く激情を非常に喚起しやすい。「食べることしか考えられない」「眠ることしか考えられない」「エロしか考えられない」という体験は誰にでもあることだと思う。これらは放っておくと生体から危険信号が出され、それを強く求める激情となって心の内に現れる。そして、これらの激情を上手くコントロールできないと現在の社会では没落の一途を辿ることになる可能性が高い(「辿ることになる」と明記しないのは、例外は存在するし、自然本性的に考えればそれは決して没落を示すものではないと考えられるから)。

>欲望を「無欲」(仏教的)、「禁欲」(キリスト教的)なものに向かわせない。欲をコントロールする「操欲」を説く。これはトレーニング、すなわち様々にわき起こる心象に対して権内・権外の基準をあてがい、吟味を繰り返すことで実践できるようになる。

 

ストア哲学の世界

・「ストア」・・・ギリシャ語で柱廊を意味する。彼らは、アテネの柱廊で学祖ゼノンは教えを説いた。講義は公共に開かれており、授業料などももらわなかった。だからソフィストなどとは異なる。(ゼノンのエピソード、学園から出た際に、足の指を骨折してしまう。ゼノンは「いま行くところだ、どうしてそう、私を呼び立てるのか」と拳で地面を叩きながら劇のセリフを口にしながら自分で息を止めて死んでしまった。)

「自然と一致して生きる」とは(ストア派スローガンの分析)

・・・「徳に従って生きること」。自然はわれわれを徳へと導いて向かわせるから。あらゆる生き物は自分の体質に適したものを探し求める。自然は生きとし生けるものをそのようにつくった。人間には理性が授けられている。ならば、理性に従って生きることは、人間にとって自然と一致して生きるとこにつながる。そして、私たちは理性によって判断し行動する人々を「徳のある人」と呼ぶ。

 

ストア派哲学の内実

ストア哲学は三つの部分から構成される(卵の例)

・殻は論理学

・黄身は自然学

白身倫理学

これらの諸要素が一体となって働くのがストア哲学

 

>論理学(ロゴスに関わる学問)

・・・ストア派の論理学は、私たちが通常論理学と考える領域よりも広い領域にまたがるもの。例えば、認識論や意味論、文法論といった言語学の一分野のような領域も含む。ストア派における論理学は、ロゴスに関わる学問。現代の論理学が扱う思考の進め方のパターンのような「理性」に関わる問題だけではなく、それを表現する「言葉」の問題も含む(ロゴスの使い方は多岐に渡る。代表的なものは「理性」「言葉」)。

・・・上述で確認した「自然と一致して生きる」という言葉に論理学も対応している。ストア派論理学は、個別的で時間的な世界を前提に考える(抽象的な存在で考えを進めない)。世界で実際に起きる物事は、具体的な個物たちの時間的な振る舞いに他ならないと考える。この関係を認識し表現するものがロゴスとなる。その時、ロゴス(上述で確認したようにここは「言葉」「理性」の二義的な意味で考えるとわかりやすい)は自然と一致して生きるということにつながる。

 

自然学(ピュシスに関わる学問)

・・・「ピュシス」は古典ギリシア語で、起源や誕生、人や事物の本性や力、自然とその秩序や法則といった意味をもつ言葉。ストア派の自然学なら「自然」や「神」という意味をもつとして考えると良い。この二義的な意味から、考えるなら自然と神は重なり合う。「神則自然」とは17世紀の哲学者スピノザの言葉だがほぼ同義(汎神論)。神は最も知的な存在なので、ロゴスをそなえた存在だ。ここに論理学と自然学の緊密な関係性を見出せる(自然=神=ロゴスをそなえた存在)。

・・・ストア派は自然は受動的原理と能動的原理の2つの原理によって成り立つとした。受動的原理は、世界の様々なものの素材となる物質に体現される。能動的原理を体現するのは神。理性に従って、質料にかたちを与えるのは神。神の能動的原理は「プネウマ」(ここでは「息」「気息」の意味、プネウマはモノをかたちづくる生気とか精気、生命力のようなものと考えられた)によって現れ、これによってかたちを保つと考えた(※質料は無規定な物質と想定される。すなわち、自然を構成する全ての物質は、受動的原理たる質料と能動的原理たる神/理性の混合物として考えられる)。

 

倫理学

・・・ストア派倫理学はその出発点に人間の「衝動」を据える。人間が時に激情にかられ、無分別、不合理な存在でもあることを認めた上で、そこから知恵を求める。理性の役割は、その衝動をコントロールすることであり、それが人間における自然のあり方とする。エピクテトスの「操欲主義」と呼ばれるような考え方は、このストア派倫理学を正統に受け継いだものと言える。

 

まとめ(現代においてエピクテトス哲学はどう活かせるか)

 

エピクテトス哲学の不変原理

1、権内にあるものと権外にあるものの区別。

         ↓

2、権内にある唯一能力、理性の使用。

         ↓

3、論理的に考え(論理学)、正しく自然を認識し(自然学)、よく生きる(倫理学)。

 

・・・エピクテトスの時代と比べて、変わったものも沢山ある(医療、各種学問、政治体制、経済状況、自然環境等)し、変わらないもの(人間関係、人間の能力等)もある。ポイントは権内・権外の区別は時代にかかわらず、個人に拠るということだ。故に最も重要なことは、自分の権内・権外の領域を明確にすることだと考られる。まずは、自分の能力や知識、性格を十分に検討する。自分には何ができて、何ができないのか把握した後に、物事との関わり方を考えていく。もちろん、権内は自分で拡張していくことができる。領域が広がれば、そこには新しい世界の見え方があるはずだ。

 

 

参考資料

吉川浩満山本貴光古代ローマ賢人の教え その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。』筑摩書房、2020年

・伊藤邦武/山内志朗/中島隆博/納富信留『世界哲学史1ー古代ー知恵から愛知へ』ちくま新書、2020年

・伊藤邦武/山内志朗/中島隆博/納富信留『世界哲学史3ー中世ー超越と普遍に向けて』ちくま新書、2020年