<今、人、思考>:「愛する」を巡る思考の軌跡

f:id:apollomaron-apo5w:20200525203811j:plain



 

 「愛していると好きの違いって何?」と以前に聞かれたことがある。その時、頭をよぎったのは、シモーヌ・ヴェイユの「同じ言葉(例えば夫が妻に言う「愛しているよ」)でも、言い方によって、陳腐なセリフにも、特別な意味をもった言葉にもなりうる。その言い方は、何気なく発した言葉が人間存在のどれくらい深い領域から出てきたかによって決まる。そして驚くべき合致によって、その言葉はそれを聞く者の同じ領域に届く。」という見事な表現である。こんなこと言うわけにもいかないので「好きである以上に、信頼しているということじゃん」と答えた気がする。

 自分がその時に答えたことは、今考えるとやっぱりその場しのぎの言葉だった気がするし、その場しのぎの言葉でしか答えられないという人間的深みのなさを感じる。「愛している」という言葉に対して無責任だったと言えるかもしれない。ある事象に対して責任を持つとは、そのものについてある程度の知識・理解があり、そのものについて聞かれた時に自身のもつ数ある知見を自分の主観的な見解と照らし合わせ、再統合し、相手にわかりやすく伝えられることだと思う。自分がその差異に対してまともに自分の見解を示さなかったことは言葉に対しての無責任さと愛に対しての無責任さを露呈することになってしまった。

 しかし、ここまで考えて自分にも疑問が浮かんでしまった。では、果たして「愛している」と「好き」の差異、「愛している」ということを明確に説明できる人が世の中にどれだけいるだろうか。冒頭の疑問文にどれだけの人が「ああ、それはね、こういうことだよ」と話し始められるだろうか。さらに言ってしまえば、どれだけの人が「愛する」ということに関して真面目に考えているだろうか。「愛している」と言うことは簡単でも「愛する」ということに関して「自分は明確な意見持っています」と言える人は少ないのではないだろうか。それは、例えば愛というものが何か自然発生的な、偶発的な事象と考えられていることに由来しないだろうか。それは、説明できない性質を兼ね備えていて、それについて学んだり、考えたりすることには意味がないと考えてはいないだろうか。愛の前段階として「恋に落ちる」という言葉があるが、その言葉はどこか恋とか愛を偶発的で運命的なものである表現しているように感じる。なぜなら人間は陥穽に自ら落ちないからである。人は偶発的にしか落ちない。もし自ら落ちたのであればそれは「落ちる」ではなく「飛び込む」である。

 このことについて悶々と考えていた時、ある本に出会った。エーリッヒ・フロムの「愛するということ」という本である。考えさせられる見解も沢山ある一方で、どうしても納得いかないというところもあった。一つ言えるのは、それらの見解の一致・不一致を再検討することによって自分にとっての「愛」すなわち「愛している」とどういうことかを具体的に考えられるようになったことである。今回は、フロムの見解と幾多の概念を参照しながら、「愛している」ということの自分なりの見解を言語化してみようと思う。

 

1、愛は技術か

 フロムは一貫して「愛するとは技術である」という立場に立つ。すなわち愛は習得するものであると考え、学び考える必要のある能力だと前提するのである。彼は、多くの人がこうした見解を持たないこと、すなわち愛をひとつの快感もしくは「運が良ければ落ちるもの」だと考えがちであるのには理由があると言う。彼はその理由を三つに分けている。

 一つ目は、多くの人が、愛の問題を愛する能力の問題ではなく、愛される能力の問題として考えていることである。確かに世の中には、そうしたキャッチコピーを貼り付けた商品が沢山ある。「彼に愛されるためには」とか「上司に気に入られるには」とか「いいねを沢山もらうには」とか。そうした商品は売れるから存在する。そう人々は「愛される」ことには無関心ではないのである。しかし、てんで「愛する」ということに関してはなぜか探求しようとしない。

 そうなる理由は、愛の問題は対象の問題で、能力の問題ではないと考えているからである。これが2つ目の理由である。歴史的に、自由な恋愛は最近になって登場したものである。自発的で個人的な体験としての自由な恋愛という概念は、能力よりも対象の重要性を上げる。すなわち「どのように愛するか」ではなく「誰を愛するか」ということばかり考えられるようになっているということである。

 三つ目は、「恋に落ちる」という最初の体験を「愛」の中に留まっている状態とを混同しているということだ。人はしばしば愛の強さの証拠を、恋に落ちた時の状態に見出そうとする(例えば、「一目惚れでした」といってうまく関係を保っているカップルを見ると、私たちはそこに注目しがちで、一目惚れ以後に二人が関係を良いものにしようと努力し続けているから関係が良好なのかもしれないという考えに至りづらい。すなわち、運命的な出会いだからなんとでもなると思いがちである)。しかし、よく考えてみればお互いが強く惹きつけられるとは、それまで二人が長い孤独にいたことを示しているかもしれない。

 フロムは「愛ほど大きな希望と期待から始まり、決まって失敗に終わる活動はない」と述べる。ならどうすればいいか。愛を技術・能力と捉え、考え学ぶしかないと彼は考えるのである。フロムは、技術の習得の過程として、理論に精通すること、習練に励むこと、そして最も重要なこととして、技術の習得が自分にとって最大の関心事にならなければいけないことだと述べている。章立てもおおよそその区分に分けられている。僕が深く検討したいのは、愛の理論についてである。以下はその検討と見解である。

 

2、愛の理論

 フロムは、愛に関する理論もまずは、人間の理論、人間の実存についての理論から始めなければいけないと述べる。人間は自分自身を知っている生命であり、人間は絶えず意識もしている。人はひとりの孤立した存在であり、人生も短い。そして、ひとりの人としての人間存在は自然や社会といった力の前では無力である。こうしたこと全てのために、人間の統一のない孤立した生活は耐え難い牢獄と化す。この牢獄から抜け出して、人と接触しないかぎり、人は発狂してしまうだろう。

 人間が生まれた時から持っている「孤立している」という存在への意識から不安が生まれる。この不安は、ある種の欲求と呼べるものである。すなわち、孤立を克服し、孤独の牢獄から抜け出したいという欲求である。

 フロムは、現代西洋社会において孤立感を克服する一般的な方法を二つあげている。一つは、集団への同調である(ここでは、現代の消費社会や民主主義に対する痛烈な批判が要領よく述べられている。主題から議論が逸れてしまうので割愛するが、興味のある人は実際に読んでみることをお勧めする。フロムの著書以外で、こうした議論をちゃんと学びたい人には、有斐閣が出している「ここから始める政治理論」をまず読んでみてほしい)。同調で得られる一体感は強烈でも激烈でもなく、穏やかで惰性的なものだ。したがって、孤立からくる不安を癒すには不十分なのだ。フロムは、現代西洋社会にみられる諸問題、すなわちアルコール中毒や麻薬耽溺、強迫的なセックスが、孤立からの不安を払拭しきれないが上にその反動で現れているものと捉える。

 またフロムは、集団への同調に加えて、現代人の生活が仕事にしろ娯楽にしろ、型にはまったものになってしまっていることを指摘し、一体感を得る方法として創造的活動に従事することをあげる。確かに、現代人の生活は型通りだと言われてもしょうがないかもしれない。出勤する必要があるのか吟味もせず、毎日満員電車に揺られ、会社についてやることといえば、昨日の延長であり、同じことの繰り返しである。組織全体の構造があらかじめ決められており、決められた仕事を、決められた速度でこなす。極め付けは、人間関係の構築の仕方まで提案されている始末である。仕事ほど極端ではないにしろ、娯楽もまた提案されたものを受け取るかたちになりがちだ。このような社会生活の中で、自分が人間であること、唯一無二の個人であること、たった一度だけ生きるチャンスを与えられたということ、希望もあれば失望もあり、悲しみや恐れ、愛への憧れや、無と孤立の恐怖もあること、を忘れすにいることができるだろうか。

 創造的活動は、創造する人間に素材との一体感を与える。素材は想像する人間の外にある世界の象徴となるからである。そうした意味で、外界との一体感を得ることはできるが、それはあくまでもその活動が、生産的な活動であり、自身が責任を持って取組み、自らでその帰結をみるような仕事のみである。しかし、現代の社会で、労働者がそのような仕事に従事できる機会はなかなか巡ってこない。

 フロムは、生産的活動で得られる一体感は、人間同士の一体感ではなく、集団への同調は偽りの一体感に過ぎないと述べる。完全な答えは、人間同士の一体化、他社との融合、すなわち愛にあると述べる。

 自分以外の人間と結合したいという欲望は、人間の最も強い欲望である。この根源的な欲望が人間の進化を支えてきたといっていいかもしれない。

 ただ、フロムは人間同士の結合の達成を「愛」と呼ぶと、大変面倒なことになると述べる。なぜなら、結合の方法には、様々なかたちがあり、その数だけ愛のかたちも多様だからである。だから、私たちは、以下のことを念頭においておかなければいけない。「愛」といった時、どういった種類の結合のことを言っているのかを私たちが了解するということである。それが、実在に対する成熟した答えとしての「愛」について述べているのか。それとも共棲的結合とで呼びうるような未成熟な「愛」について述べているのか。

 議論の順序からするなら、ここで共棲的結合と呼ばれる未成熟な「愛」のかたちについて述べてから、成熟した「愛」のかたちについて述べるのが妥当だと思われるが、現時点で相当の文字数になっている上に、まだ書きたいことが沢山あるため、未成熟な「愛」のかたちについては割愛させてもらう。

 さて、それではフロムの言うところの成熟した「愛」とはどういうものなのか。彼は、その愛を「自分の全体性と個性を保ったままでの結合であり、人間の中にある能動的な力」だと述べている。さらに引用するなら愛は「人をほかの人びとから隔てている壁をぶち破る力であり、人と人を結びつける力である」と彼は述べる。

 さらに彼は、愛を人間の一つの「活動」として捉えることに関して議論を進めていく。彼によれば、愛を「活動」とみなして考えるのには注意する必要がある。なぜなら、現代において「活動」とは言葉の意味が曖昧だからである。現代の用法では、活動とはしばしば、エネルギーを費やして、現在の状況に変化をあたえるような行為を指す。しかし、活動的である評価される種々の出来事(事業に取り組むこと、スポーツに興じること等)に共通しているのは、達成すべき目標が外側にあるということだ。活動の動機が考慮に入っていない。強い不安や孤独感から仕事に打ち込む人もいれば、野心から仕事に打ち込む人もいる。どちらの人も、情熱の奴隷になっている。彼らの活動は、能動的に見えているが、実は駆り立てられているのであり、受動的なのだ。

 一方で、静かに座り、自己と向き合い、世界との一体感以外の目的を持たずに内省する人は、外見的には何もしていないので受動的に見えるが、実のところ最も高度な活動をしているとも言える。なぜなら、それは内面的な自由と独立がなければできない魂の活動だからである。

 後者の活動について、より詳しい検討をするため、彼はそこで17世紀の哲学者スピノザの考えを紹介している。スピノザは、感情を能動的な感情と受動的な感情、「行動」と「情熱」に分けた。能動的な感情を行使する時、人はより自由であり、自分の感情の主人であるが、受動的な感情を行使する時、人は駆り立てられ、動機の僕となる。スピノザは、徳と力は同じ一つのものであるという結論に達する。そこから、フロムは「愛は行動であり、人間的な力の実践であって、自由でなければ実践できず、強制の結果としては決して実践されえない」という結論を導いている。愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。その中に「落ちる」ものではない。自ら踏み込み、何よりも与えることであり、もらうことではない、というのが彼の概ねの主張である。

 

3、理論と愛に関する検討

 彼の成熟した「愛」に関する主張をまとめるとこうなる。自分の全体性と独立を保ちながらの結合であり、それは人間の能動的な力の実践である。愛は何よりも与えるものでなければならず、もらうものではない。この主張から、二つの部分に着眼点を置いて議論を展開してみたいと思う。一つは、フロムが愛に関して述べる時、その姿勢・態度を態の問題として捉えていることである。もう一つは、愛の能動的な実践を「与える」という行為で考えている点である。

 まず、態の問題から考えてみよう。彼の主張では、愛とは人間の能動的な力の実践である。スピノザの見解からも、わかるように受動的な感情を行使している状態は、動機の僕になっているという点において、また意志の介在がないという点で、自身の力を実践しているとは言いづらい。それは、愛とは言いづらいだろう。しかし、もう一度よく考えてみよう。能動的な力を行使する時、私たちは必ずしも、意志のみの力によって力を行使しているだろうか。以前、別の記事でも書いたが、意志というもの自体も実際は、様々な外部要因からの影響を受けて内に生まれるものである。必ずしも、過去の要因から切断された絶対的な意志というものは存在しない。そう考えた時、愛の実践とは必ずしも能動的な力「のみ」の実践とは言えない。というよりも、能動的と受動的で分けて考えることに無理がある。人間は、通常「意志」と呼ばれる力と外部要因の両方の影響を受けながら、力を行使している。絶対的に自由な力の行使は存在しない。では、フロムが述べている能動的な力の行使はどう再定義するべきだろうか。それは、人間の力の行使において「意志」と呼ばれているものに強く影響を受けながら、私たちが力を行使するということである。逆に受動的な力の行使とは、「意志」の力が弱まり、外部要因に強い影響を受けながら、私たちが力を行使するということである。

 なぜ、態の問題を取り上げ、フロムの主張を再定義したのか。その理由は、二つ目に検討する「与える」という行為に大きく関与するものだからだ。フロムは、能動的な力の実践が愛だと述べた後、愛は何よりも「与える」ことだと述べ、「もらう」ことではないと述べる。ここでの「与える」とは現代資本主義が前提とする「交換」とは別物である。「交換」は、相手に対価を要求する。「与える」ことの前提に同等の対価を「もらう」ということが含まれている。フロムが述べるところの「与える」とは「贈与」という言葉に置き換えることが可能だろう。「贈与」は見返りを要求しない。

 「贈与」という言葉で与えるということを考える時に気をつけなければいけないことは、それが、「偽善」や「自己犠牲」になっていはいけないということだ。相手の見返りを計算してはいけないし、何の負い目もなく「贈与」の成り手になっていはいけない。哲学者の近内悠太は、有名な映画「Pay it Forward」のトレバー少年を題材に、プレヒストリー無き「贈与」が必ず失敗に終わることを示唆している。「与える=贈与」が何らかの負い目に対する返却でなければいけないとすれば、その「負い目」とは何か。愛の問題で考える時、僕はそれを「愛されている」という感覚だと言いたい。私たちが、愛の実践として「与える=贈与」を行う時、そこには相手に「愛されている」という感覚、これまで誰かに「愛されてきた」という感覚が介在している。この感覚こそが軸となって、愛は「与える」という能動的な実践になる。

 ここで、初めてフロムの定義を再定義した意味が浮き彫りになる。すなわち、愛の実践は能動的な力の行使を前面に打ち出したものであると同時に、その行為の実践の軸にはある種受動的とも言える負い目「愛されている」という感覚が介在する行為であるということである。人を愛するとは、確立した自己のうちで能動的な力の行使「与える」をするということである。ただ、人は何の負い目もなく「与える」ことはできない、そこには「愛されている」という強固な感覚がなければいけない。上記の意味で、僕はフロムとは異なる主張をしたい。愛の実践とは、確立した自己をもつ人間が、「愛されている」という確かな感覚を軸に、人間の能動的な力の行使として「贈与」を実践することだ。

 

あとがき

 長い。何でこんな長ったらしくなってしまったんだ。自分の文章力に磨きをかけなければいけないと書き終わった後で猛省しています。「愛について突然語り始めるなんて、どうしたのお前?」という疑問に対してはお答えできません。理由は、それなりにあるのですがコンテンツ化したくないので語ることは一切しません。

 こうやって真剣に「愛する」ということについて考えてみると、今まで見えていなかったものが見えてきます。「愛する」ということを技術と捉えて学ぶとは、フロムが著書の冒頭で主張することですが、僕はその点に関しては彼の意見に共感できます。「愛は、感情的なもので説明出来ないこともある」、そうした主張は間違いではないと思うし、愛には言語化したり理論化できない部分があるのも当然でしょう。例えば「愛がなんだ」という映画は、そうした感情を丁寧に映画いた作品です。ただ、だからと言って感情だけに任せて愛が続くとは思えない。やはり、そこには、愛する二人が、関係を保つために意識的に実践している努力が必ずあると思うのです。

 現代社会は、自由恋愛が主流となり、愛の発露や対象ばかりが話題になります。勿論、それも恋愛における一つの醍醐味であるとは思います。しかし、もっと「愛する」ということそのものについて考えを巡らせてもいいのではないかと、僕はそう思います。