最強の炊飯器

 

「万国の消費者は団結するまえに、みんな「お人好し」化してしまった。唯々諾々と新型機種に乗り換えては、捨てて、乗り換えては捨ててを繰り返し、新自由主義の時代に貯めておかねば将来が危ぶまれるお金を、ジャブジャブ計画的陳腐化に貢献すべく投じている。掃除機、扇風機、パソコン、ゲーム機、ありとあらゆるものの壊れざまを見てきたが、ちょっとこれは早すぎるだろう、という壊れ方をする。」(引用:藤原辰史「ほどく、ほぐす、つくろう(1)」『現代思想』vol.46-13、青土社、2018年、213頁)

 

 この記事を書いているパソコンのバッテリーがもう限界にきている。先日、パソコンを開くと「バッテリーから出火する可能性があるから、バッテリーを交換するか新しいパソコンに換えてください」との警告文が出てきた。ガジェットに詳しくないので、定かではないがバッテリーの寿命は大体2年ぐらいだと言われている気がする。このパソコンは、高校2年生の時に買ったパソコンだから、すでに6年目に突入する。この業界では、もはや骨董品の部類に入るのだろう。

 

 今の時代、すぐに壊れるものが多いと感じる。スマートフォンなんか、ちょっとした衝撃であっという間に不具合が生じる。というか、壊れやすく造られているのだろう。

 

 マーケティング用語に「計画的陳腐化」という言葉がある。使用中にわざと質を落とすようにあらかじめ設計し、新しい世代のものを買わせる方法だ。度が過ぎれば、消費者から批判される。しかし、あらゆるものにおいて計画的陳腐化が進んでいる現代では、消費者が物の壊れやすさに鈍感になってしまっている気がする。

 

 例えば、僕らはスマートフォンの壊れやすさや機種交換のスピードに鈍感である。こんなにあっさり壊れるものはよく考えれば不良品である。それに「そんなに頻繁に換える必要がるのだろうか」と思うぐらい、新しい機種に乗り換えてくる人が沢山いる。新しい機種を開発している暇があったら何十年も換えなくても済むような超耐久型スマートフォンを開発してほしい。

 

 経済学者のガルブレイスは、経済の基本的な概念である「消費者主権」(消費者の需要に応えて、生産者が物を供給するという経済の構造)が現代においては全く通用しなくなっていると述べた。生産と供給が先行しているのだ。

 「夜警国家」という言葉を初めて使ったフェルディナント・ラッサールは19世紀の初頭にすでに、資本主義経済では生産と供給が欲求に先行し、物が欲求のために生産されるのではなく、世界市場のために生産されるという指摘をしている。

 

 半年毎に売り出される新機種、計画的陳腐化等々、僕たちの生活は市場の活気のために左右され続けている。

 

昔の製品がいかに優れていたかを示す代表例みたいな製品が僕の家にある。炊飯器だ。現役で使われている炊飯器なのだが、こいつがすごい。なんと50年近く前の炊飯器なのだ。父(父は60後半)が二十歳の頃に父の兄からもらったものなのだ。これほど、昔の製品なのに今まで一度も壊れていない。圧倒的耐久力である。そして、さらにすごいのが炊くスピードである。なんと15分である。これは、現代の炊飯器と比べても圧倒的と言えるスピードなのではないだろうか。これほどハイスペック(?)な炊飯器が50年前に存在したのだ。そして、こいつは今も毎晩のようにほっかほかのご飯を炊き続けている。

 

日本語には「もったいない」という言葉がある。ノーベル平和賞を受賞したワンガリ・マータイがこの言葉を世界共通の言葉にしようと呼びかけたことは記憶に新しい。「もったいない」とは、「有用なのに、そのままにしておいたり、むだにしてしまったりするのが惜しい」という意味の言葉である。マータイは、「もったいない」という言葉が物や自然に対するリスペクトを表す言葉であることに着目し、それを世界の共通語として使用と呼びかけた。

 

計画的陳腐化の時代の製品は、付与された記号のみが消費され続ける。それは生産者の志向のみならず使用者である僕たちにも当てはまる。製品に付与される様々な記号を、僕たちは消費しているわけである。そこで失われているのは、製品と僕たちのつながりだ。僕たちは、あらゆるものとの間に関係性を構築させる。意味を付与したその瞬間から、そこに自身とって唯一の関係性が立ち現れる。あるものに対して愛着が湧いたりするのは、そのものへの愛というわけではなく、そのものと自分の間にある唯一的関係性への愛だ。こうした関係性の構築はものとの長い付き合いによって生まれる。しかし、どうだろう。計画的陳腐化は物との付き合いを短くしてはいないだろうか。僕たちは、製品の記号だけを消費し、消費が済んだら、別の記号の消費に向かっていないだろうか。記号を消費されつくした物は、用済みのゴミだろうか。僕たちは、物との関係性を敢えて無視するようになってきてはいないだろうか。近年、物に対するリスペクトはどんどん薄まっているように思う。その中でも、「もったいない」という言葉が評価され始めたのは一つの希望である。

 

現代の消費スタイルと物との関係性について、個々人がもう一度じっくり考えてみる必要があるのではないだろうか。

 

 

文献

藤原辰史「ほどく、ほぐす、つくろう(1)」『現代思想』vol.46-13、青土社、2018年

國分功一郎『暇と退屈の倫理学<増補新版>』太田出版、2015年

 

文献案内

 藤原辰史の「ほどく、ほぐす、つくろう(1)」という論稿は、藤原が2013年7月の『現代思想』から始めた「分解の哲学」という連載の中の一つである。藤原は、農業や食の思想史を研究している。僕が実際に読んだことのあるものとしては、昨年の冬に岩波新書から出された『給食の歴史』がある。読んでいくと、身近な存在であった給食の意外とも言える原点や日本の戦後の給食事情を知ったりすることができる。非常に上手い書き手なので、是非手にとって読んでみてほしい。

 國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』は、僕のバイブルとも言える本である。これまでにこの本から多くの着想を得てきた。僕が哲学や倫理学に興味をもつきっかけとなった本である。この本は新盤になる前に、朝日出版社から出ている。新版には、「暇と退屈の存在論」を論じた短い論稿が加えられている。他に著者の本として僕がお勧めしたいのは、『中動態の世界―意志と責任の考古学』、『近代政治哲学』の二冊である。いずれも哲学に馴染みのない人にとっては難解に感じられる部分があるかもしれないが、哲学の本としてはわかりやすく書かれているほうだと思う。特に、後者は著者の大学での授業を下地に書かれているので、まあ大学生程度の教養があれば理解できる内容ではある。