学生生活を終えて

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はじめに

 

 先日、大学から卒業通知が届いた。大学が春休みに入ってから一か月ちょっとだろうか。「あ~、ついに来たか」という感じだ。明日、僕は大学を卒業する。

 

あっという間に四年の月日が過ぎていた。最初の頃のことはよく覚えている。春休みにはTwitterで同じ大学や学部、専攻に行く新入生を見つけてフォローしたりしていた。今考えると「何やってんだか」という感じだが、当時の僕のメンタリティーなんかそんなもんだったのだ。

 

田舎の私立高校から、東京のマンモス大学に入学。当初は色んなことが刺激的だった。溢れんばかりの人の群れや個性的な人びとの数々。自分が如何に井の中の蛙であったかを毎日のように感じていた。

 

しかし、大学生活も慣れてしまうと早いものであっという間に月日が流れていった。勿論、色んなことがあった。学祭ライブの運営や教育系NPOでの活動、泥沼の恋愛、就活、卒論、列挙しきれないほどのことがこの四年間には詰まっている。

 

僕はこの四年間で変わっただろうか。個人的に芯の部分はあまり変わっていない気がする。でも、考え方や価値観は大きく変わったのではないかと思う。今回は学問・サークルに絞っていくらか自分の大学生活を振り返ってみたいと思う。

 


 大学での学業を終えて


 先々月の後半、卒業論文提出後に行われる面接へと向かった。大学に向かう途中で、「義務教育から始まった学業が終わるんだ」となんとなく実感したのを覚えている。面接が始まって開口一番、教授は僕にこう言った。「卒論の満足度は何%ぐらい?」。教授のこの言葉が印象に残っているのは、その質問の仕方が大学での学問のあり方を示すようなものに感じられたからだ。高校までの学業は「教育」を受けるものだった。しかし、大学の「学問」はそれとは違う。自ら選択した学を、主体的に学び、深め、醸成する。僕たちは受動的な存在から能動的な存在へと変わることを迫られる。大学学業の集大成が卒業論文で、そこで満足度が問われるとはこうした「学問」としてのあり方に基づくものだったのではないかと僕は思っている。僕が満足度に関してどれくらいかと答えたのは省いておく。この場を借りて大学での「学び」とは僕にとってどんなものだったか述べてみたいと思う。

 


大学入学当初、僕は大学での「学び」をよくわかっていなかった。中高時代は塾に通ったり、人に教えてもらうのが苦手だったので(捻くれてる)、参考書を買って自分で勉強してた。割と能動的に勉強していたつもりだった。いざ大学に入って、本物の「学問」に触れると自分の学びへの態度がいかに稚拙なものだったかを実感した。中高までの学業には必ず答えがある。また、何をどのくらい学べばいいのかもある程度決まっている。だから、何をやればいいのかは自ずと決まってくるし、決められている。大学の学問はそうではない。自分でテーマを考え、そのテーマを徹底的に追求する。何をどれくらいやればいいのかなんて誰も教えてくれないし、そんなものは存在しない。終着点などない。入学した当初は、こうした学問のあり方に馴染めなかった。世界史が好きで入った学部。その学部で行われる歴史学は、僕の想像していたものとは全く違った。大学に入って1、2年、学問とはあまりまともに向き合えなかった。転機は、大学2年の春休みだった。3年から始まるゼミに向けてそろそろ学問と向き合わなければいけないと感じていた。先ずは、ちゃんと本が読めないと駄目だなと思い、新書から研究書までたくさんの本を読んだ。そのおかげでそれなりに文章を読むことはできるようになったのだが、肝心な部分、すなわち自分が何と向き合うか、何を研究対象にするかということに関しては全く決まらなかった。膨大なアメリカ史(ヨーロッパの方が圧倒的に膨大だけど)の中で何に焦点をあてるか悩みに悩んだ。

 


なかなか決められなかった理由は、そもそも自分が取り組む研究にどんな意義があるのかということ、そして歴史学の研究に何ができるのかということに関して自分が疑問をもっていたからだと思う。ずっとそのことが頭に引っかかっていてアメリカ史の中を彷徨っていた。大学3年ゼミの大半はそんな感じだったと思う。転機が訪れたのは、大学3年の春休みに読んだ『理不尽な進化』という本だった。詳しいこと話すと全く別物の記事になってしまうのでここでは割愛するが、上記で述べたモヤモヤした疑問、それを解消してくれるような本だった(テーマとしては全く研究と関係の無い本だったので驚きではあった)。ここでのブレイクスルーを経て、僕は本格的に研究対象を絞って研究に取り組み始める。

 

僕のテーマはざっくり言うとアメリカ史におけるキリスト教の発展とデモクラシーの関係である。この話もまた話を始めるとキリがないので、以前に書いた卒論の序章を載っけておく。以下である。

 


 この小論は17世紀から19世紀前半までのアメリカにおけるキリスト教の展開とデモクラシーの関係性を考察することである。第一章では、プロテスタンティズムの発展の 歴史を概観し、大陸で生まれたプロテスタンティズムがどのようなかたちでアメリカ大陸に輸入されたのかを確認する。その後、革命期までのキリスト教の展開を社会との関係性を 軸に参照する。特に、18世紀半ばに起こった「大覚醒」と呼ばれる信仰復興運動は、宗教 と社会の両面において多大な影響を及ぼし、後の「ヴァージニア信教自由法」の成立や「第 二次大覚醒」と呼ばれる信仰復興運動につながるものである。

 


第二章では、「ヴァージニア信教自由法」の成立を扱う。ヴァージニア信教自由法は17 86年に成立した法律である。一般的に、この法には四つの歴史的意義があると考えられて いる。ヴァージニアにおいて初めて信教・思想の自由を保障したこと、アメリカ合衆国憲法 修正第一条(1791年)を経て確立されるアメリカにおける信教・思想の自由の伝統の基礎となったこと、トマス・ジェファソンの宗教思想、ならびに革命期のアメリカ社会の宗教 的傾向がそこに示されているということ、広く思想の自由の擁護のた めの理論的指標となったこと、これら四つである。本稿では、この法案の成立こそがアメリカのキリスト教の方向性を決めた大きな要因であったとことを強調したい。この法案の成立によって、政教分離が決定的なものになったという事実、そして法案成立に至るまでの過程に見られる異なる教派の人びとの協同は、その後のアメリカのデモクラシーの発展を暗示するものであったと言える。

 


第三章では、独立革命後のアメリカのキリスト教の展開とキリスト教の内的変化が政治的・社会的デモクラシーにどのような影響を与えたかについて述べる。革命後の社会にどのように適応していくか、既成教会にとっては大きな課題であった。そうした外的な変化への対応と同時に、理神論やユニテリアニズムといった合理主義傾向をもつ教派の挑戦へも対応しなければいけなかった。最終的に拡大する西部において上手く適応していったメソジ スト教会やバプテスト教会などがその後のアメリカ的キリスト教の主勢力となっていく。 彼らは、自ら聖書を読み、自らの解釈によって確信を得たのである。こうした、宗教の個人主義化、資本主義的な利己主義の発達、そして独立革命による平等の亢進が、この時期のアメリカン・デモクラシーを形成したのである。

 


アメリカ的キリスト教の展開は、それ自体の変化として語ることはできない。それは社会の変化に即応しながら常に変化し続けていたのである。その一方で、宗教的な変化が社会の変化の軌跡を示すだけでなく、社会に対しても大きな影響を与えていたことは否定できな い。以下は、アメリカにおけるキリスト教と社会のつながりに関して18、19世紀を中心に考察した小論である。

 


とまあこんな感じである。僕は四年生の間ひたすらこのテーマと向き合ってきた。研究テーマに関してそこそこ詳しくなったというのは一つの収穫であった。また、自分にとっての「学問」とはどういうことかもわかった。歴史学は過去のある事象に焦点を絞り、一次史料・二次史料などを用いながら、その事象の発生から帰結、その後の影響までを考察するものだ。事象のことを歴史的事実などと言ったりするが、この歴史的事実というのは一般に言う「事実」とはまた異なる。歴史的事実は、歴史家によって見出されるのではなく作られる。それは完全に客観的に構成された事実ではなく歴史家の主観が入り混じるものだ。なぜなら、歴史家も歴史の中におり、自らも自らの歴史を背負っているからだ。クローチェという歴史家が「全ての歴史は現代史である」と述べたが、要はそういうことである。歴史学を最初に始めた時は、これを聞いて「なんだかな~、やる意味あんのかな~」と思っていたのだが、四年生になり卒業論文を乗り越えた今、僕はクローチェの言葉を違うかたちで捉えている。全ての歴史は結局のところ歴史家の主観が入り混じる歴史的事実だからこそ意味があるのだ。完全に客観的な事実など書きようがない。僕たちは世界に内在しているのでそれは無理な話である。歴史学とは歴史家が出来る限り客観的な史料に従いながら、一つの歴史的事実を提示する、そうした営みである。歴史的事実に意味があるかないかは歴史家が決めることではない。歴史に触れる僕たち一人一人が決めるのだ。

 


こうした学問への向き合い方以外にも得たものはある。それは、新しい価値観である。研究に取り組んでいるとそれこそ数え切れないくらいたくさんの論文を読むことになる。それは同時にあらゆるものの見方に触れる経験でもある。同じ対象を扱っているのに視点が全く異なっているものも山のようにある。そうした論文の大海でもがいていると自然と他人の価値観や見方を尊重できるようになる。昔の自分は「受け入れる」もしくは「受け入れない」の二つの選択肢しか持っていなかった。しかし、学問・研究にそれなりに向き合った今、僕の中には「尊重」という選択肢が増えた。これは何も学問の場にとどまらない。普段人と話をしているときも同じである。どんなに仲の良い人でも、自分にとっては理解できないことや受け入れ難いことというのはある。その時は、否定も肯定もしない。その人がその人であるための欠かせない点として尊重するのである。よく考えてみると「こんなこと当たり前でしょ」という気がするのだが、意識しながら話をしたり聞けるようになるのと無意識ではそれなりに差があると思う。こうした価値観の変化は研究に取り組んだことから得られた思わぬ副産物であった。

 


サークルについて

 


 「アカペラサークルなんですよ」

 「え、意外」

 


このやりとりを大学生活の中で何回も繰り返した。それぐらい僕には歌を歌うイメージがないらしい。

 


僕は4年間アカペラサークルに所属してしていた。多分、サークルの人にも言ったことがないと思うが、勧誘をうける前からアカペラをやろうと思っていた。理由がなかったわけではない。一つは、高校の頃によく観ていた海外ドラマGleeに影響されていたということ。もう一つは、これまで自分が挑戦したことのないものに取り組んでみようと思ったことだ。そんなわけで、他のサークル勧誘を押しのけまっすぐアカペラサークルのブースに行き新歓コンパのチケットを手にとった。

 


そんな感じで入ったわけだが、音楽経験が全くないので思いっきり壁にぶつかる。音がとれないし、譜面も読めない。サークルの同期とカラオケに行けば、周りが上手すぎて「自分こんなに下手なのに歌っていいんですか」と腰が引けてしまう。カラオケ恐怖症になるかと思った。そんな感じで最初の方は、楽しさ半分、いや楽しさ3分の1苦しさ3分の2みたいな感じだった。

 


歌うのがそこそこ楽しくなったのは最初の(というか最初で最後の)同期バンドを組んでからだと思う。洋楽をやりたいというコンセプトで集まったバンドだった。最初にやった曲はP!nkのRaise Your Glassという曲。今思えば、本当に難しい曲でなぜこの曲を最初にやったのかという疑問があるわけだが、まあその辺を勢いでカバーしてたあたりがやっぱり一年生なのである。この曲には「チャンガチャンガチャンチクチャンチク」という特徴的なスキャットがあるのだが、ひたすらこの練習をコーラスでしていた。当時は必死だったわけだが、今となっては良い思い出だ。最初に公開バンクリかなんかで披露した時は、緊張で死ぬかと思った。

 


その後もBruno MarsのThe Lazy SongやMichael JacksonのBlack or Whiteに取り組んだりした。一年生の終わりには初箱ライブをやったり順調なバンド活動だったと思う。

ただ、僕自身の中にこのままサークルだけなんとなく続けていていいのかなという思いも芽生えていた。せっかく大学に入ったのに学問は中途半端だし、他に新しく挑戦できることがあるんじゃないかと。かといって、せっかく始めたアカペラはやめたくない。一年生の後半はかなり揺らいでいた。まあ、しかしそんな感じだと練習にも身が入らない。ある日メンバーの一人からラインが来て、大学の近くで話し合うことになった。くだらない話を少しした後にメンバーから「これから、どうしたいの?最近やる気がないように見える」と言われた。しっかりと自分の揺らぎは見抜かれていたわけである。本気で取り組んでいるメンバーを前に何を言っていいかわからなかった。自分がなんと言ったかも覚えていない。ただひとつだけ感覚として覚えているのは、メンバーがしっかりと自分と向き合ってくれているという感覚だった。その話し合いの後、帰りの電車の中で、このバンド以外にバンドは組まない、その代わりこのバンドだけは大切に最後までやりきろうと決めた。

 


その後の活動は、主に学祭のメインステージに立つことを目標としていた。二年生の段階で、そのステージに立つことはいばらの道なので、まずは内部を知ろうと思ってサークルの学祭係に取り組んだ(勿論、そういう下心だけじゃなく、サークル全体に貢献したいという思いもあった)。三年生では、二次のオーディションをギリギリで通過しエントランスのステージに立つことができた。あのステージで歌った時の感覚は今でも忘れていない。緊張感を放り捨ててただ楽しく歌えた唯一のステージだった気がする。しかし、そう上手くことが進むわけでもなく、最終的に四年生になってもメインステージに立つことはできなかった。

 

 最後の学祭を終えてからは早かった。あっという間に卒業ライブの前日になっていた。メンバーのそれぞれは僕と違い色々なバンドで出ていたので練習はあまりできなかった。Give Up the Funkが流れ本番が始まる。Raise Your Glassを歌いMCである。普段はMCをほとんどやらないバンドだが、流石に最後なので話す時間はとっていた。バンドの紹介はともかく話をどうまわすか打ち合わせをしていなかったので、ぼけーっとしていたのだが、急に「はい!後お願い!」と言われて、MCの主導権を全部譲渡されてしまった。これには流石の僕もびっくりして、、、なんてことはなく「完全に予想通り、所属しているバンドここだけだし、いつも寡黙ぶって喋らないから、絶対まわしてくる、確実にまわしてくる、ちゃんと考えてありますよ、めちゃくちゃ考えているとプロット読んでるみたいで気持ち悪いからそこそこに考えてますよ」という気持ちをひたすら隠し「え?まじ?」みたい感じでMCをやらせてもらった。と言っても、考えてたことなんかほとんど喋れなかったし、喋ってる最中に色んなこと思い出しちゃうし、もう色々ダメダメだった(卒ライの動画見返す時そこだけ飛ばしてる)。そしてきっちりBlack or Whiteで締めて、最後のステージが終わった。その二日後にメンバーと楽しく飲み会をして僕のサークルライフは終わりを告げた。

 


同期の他の面々に比べれば、僕はサークルへの参加率が圧倒的に低かった。努力の量も明らかに違う。三年生の頃なんかほとんど全体のイベントに参加してなかったし、専攻の友達には「辞めたと思ってた」と言われたこともある。それでもやっぱり僕にとってサークルでの経験はかけがえのないものだった。何よりサークルで出会った同期、先輩、後輩とのつながりは大きいし、色々な刺激をうけた。自分なりの関わり方ではあったが、楽しく過ごせた四年間だった。

 


ありがとうSound Arts、そしてこんな僕と四年間バンドを続けてくれたNospeEjisonのメンバー、ほんとうにありがとう。

 

 

 

終わりに

 

 今この文章を、引っ越し先から帰る特急電車の中で書いている。新しく住む町はとても住みやすそうだ。人もやさしい。

 


大学も実家から通っていた僕として、地元を離れるのは大いに寂しい。ここ最近は地元の馴染みの道を歩くと「何度この道を歩いたんだろう、何度この場所から季節の変化を感じただろう、何度この場所から夜空を見上げただろう」と色んな思い出や感情が溢れてくる。四年間通い続けていた下北沢を歩けば、この道をほろ酔いで歩けるのは次はいつだろうかと考えてしまう。こんなに寂しい春は初めてだ。

 


かといって、悲観にくれてばかりいるわけではない。社会人として、新天地で頑張っていくつもりだし、心の準備も出来ている。最初はわからないことだらけだろうし、たくさん失敗もすると思う。不器用なので変なことでストレスが溜まるかもしれない。だけど、自分の取り組む仕事には責任を持って向き合っていきたい。自分で決めた道なのだから。

 


「自分のやっていることの意味を探す必要はない。やったことの結果が誰かの意味あることになればいい。」(宇宙兄弟35巻、ムッタ)

 


この言葉を胸に刻んで頑張っていきたい。

 


大学生活をともに過ごしてくれた全ての人に感謝しています。本当にありがとう。

 

 

 

(このブログは細々と続けると思います)。

 

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