近況とコトの再構成<事実の多面性>

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  最近、Netflixで配信されている「13の理由」を観ている。やっとシーズン2まで観終わった。リバティ高校に通うクレイ・ジェンセンが自殺してしまった同級生ハンナ・ベイカーの生前に録音したカセットテープを聴き始めるところからストーリーが始まる。テープは両面で13の録音があり、一つの録音がそれぞれハンナを自殺に追い込んだ人へと向けられている。つまり、テープの内容はハンナが死に至るまでのストーリーなのである。クレイはテープを聴きながら、ハンナがなぜ自殺という選択にたどり着いてしまったかを知ろうとする。ここまでが、シーズン1の内容である。シーズン2では、ハンナの両親が学校側に対して行った裁判を描きながら、テープに出てきた人たちのハンナとの交流が回想される。

 

 ティーンエイジャーが抱え得る問題を非常にリアルなタッチで描いた作品だ。学校でのいじめやレイプ、薬物依存、自殺などの問題を取り上げつつ、これらの問題にどう向き合えばいいのか。周りの人間や大人がどのように対応すればいいのか。その困難さや苦悩も描かれる。

 

 シーズン1を観終わった時点で、着眼点の鋭さとその描写のリアルさに圧倒された。徐々に孤立し、段々と頼れる人がいなくなる。というよりも、自ら孤独だと思い込んでしまうのである。人を信じられなくなるのだ。その感情表現の生々しさが観てる側にも伝わってきて結構辛いものがあった。

 

 どちらかというと、シーズン1はその描写のリアルさに驚いた部分があったが、シーズン2を観てあることに気づいた。当たり前のことではあるが、事実は多様な側面を持っているということである。例えば、ハンナが語る事実は「ハンナの事実」であってあらゆる対象から独立した確固たる事実ではないということだ。事実が「語られる」以上、そこには語り手の存在がある。語り手が見て、感じたことで事実は構成されている。つまり一つの事象に対しての事実は、それを語る語り手の数だけ存在するということである。現に、裁判で証言に立ったハンナの同級生たちは、ハンナとの出来事を自らの事実として語り始める。事象、つまり「起こったこと」は誰の目から見ても同じであっても、それを感受する僕たち一人一人が構成し認識するものはそれぞれ違う。そうした事実の多面的な側面がシーズン2では強調されて描かれていた気がする。

 

 同じように経験してきたことでも、自分が感じたことと他人が感じていることは違う。どうしても主観的なイメージが先行してしまって、物事に対する向き合い方が一方的になってしまうことはある。デリケートなことや感情を逆撫でするようなことなら、尚更冷静でいることは難しい。

 

 一方的な見方を避けて、自分の心象と相手の心象の観点からある物事を俯瞰的に見る最良の方法はなんだろうか、とこの作品を見た後にぼんやりと考えていた。真っ先に思いついたのは、話し合うことである。お互いが、一つの物事に対して解釈を出し合い、抽象的な点から具象的な点にイメージを再構成する。これは、ある一つの事象における事実の再構成という側面で有効なだけでなく、話し合った人の間でお互いへの理解が進むという面でも有益だ。何よりも、それぞれの人がどのような視点で物事を見ているかということを知れるという意味でも面白い。

 

 上記ではなんだか難しそうに述べたが、要はおしゃべり、そしてそれを通して得られることは意外にも多いということである。話しているなかで、自分の口から思いがけない言葉が出てきて、初めて自分が何を感じていた理解したことが僕にはある。話している最中に一つのシナプスと別のシナプスが繋がることもあった。

 

 そうした「おしゃべり」というものを一つのコンテンツにしたら面白いかもしれない。そう思った。そんな時、たまたま地元の友人がnoteに書いた記事を読んだ。その内容を見て、「もしかしたら、自分と似たような考えを持っているのではないかと思った」すぐに彼女に電話をかけ、お互いの考えていることを共有した。いくつかの部分で、合致しないこともあったが、「語り」という切り口でコンテンツを一緒に作っていこうという話になった。

 

 今は、そのコンテンツの立ち上げに向けて彼女とその形式を整備している。内容としては「語り手の人生グラフをもとに、ターニングポイントに関して話を重ね、その人のもつ考え方や感情を共有する」というものだ。段取りや共有の方法に関しては、まだまだ議論していかなければいけないことが多いが、自分たちが考えるものをカタチにしていく作業の中で久しぶりに何かに熱中するという感覚を取り戻しつつある。

 

 自分は、自らが向き合った事象に関して自らの心象を述べるということをブログを通して続けてきた。そしてこれからも続けていくと思う。なぜ心象を発信し続けるのかと言われれば、それは自分が述べたいからにすぎない。書きたいから書いているのである。僕は、人が読みたいものに媚びて書くことはできない。自分が向き合い、心の底から感動したり影響を受けたものでなければ、言葉にできてもそれはただの記号の羅列になるし、多分無味乾燥なものになる。

 

 こうした発信とは別に、新たな試みを同じ意志を持った人と共同で始める。そして、この試みはその場において第三者を交え、お互いが発信と受信を重ね合う中で生まれるコトの創造である。いや、創造ではない。コトの再構成である。そこでは明確に共有されるものが決まっているわけではない。語るという過程の中で、語り手・聞き手の背景のうちに共有されるものが決まるのである。

 

 この試みが上手くいくかどうかはわからない。今はただやってみるだけである。この試みに関心があったり、意見があればぜひ声をかけてほしい。