「TENET」の感想

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(「エリザベス・デビッキてデカイわね」と思って後で身長調べたら、190あった。クリス・ヘムズワースと同じやん。オーストラリアの人って大きい人が多いなぁと思った。)

 

 

 評判の映画「TENET」を先日観てきた。「ダークナイト」以降クリストファー・ノーランの作品は公開される度に観に行ってきた。よく言われているが、ノーランの映画は一度観ただけではよくわからない部分が多い。「わかる」「わからない」という尺度で映画を評価すると、作品そのものに何か「正しい解釈」が存在しているかのような印象を与えかねないので、一応補足するが僕が言っているのは、ストーリーを進行させている法則や構造の話である。例えば「インセプション」の中では、「夢に潜り込む」というキー行動を軸にストーリーが進行する。この行動は、作品内で独自の法則性を有しているものでもある。「夢の中では時間の進行が遅くなる」、「夢の中でさらに他人の夢に潜る」、「夢の中で死ぬと戻って来れなくなる」等の法則性が行動の構造を支える柱となり、劇中での行為が正当性を得たものとしてさらにストーリーという全体像を支える柱となる。「よくわからない」とは要はその構造や法則を理解するのがという意味だ。キーセンテンスをしっかりと聞き取って、物語の進行が理解できないとただただ壮大な画を見せられている時間になる(ノーランの映画は長いので初見でぼーっと観ていると大体こういう状態になる)。

 

 

 そして、今回の「TENET」なのだが、観る前から難しい映画だという噂は聞いていた。「理解してから観直すと面白い」とか言われるぐらいなのだから、まあそこそこ覚悟して観に行ったわけである。結論から言うと想像よりも難しくはなかった。印象としては序盤に絡まった毛糸を放り投げられて、終盤に向かうにつれて舞台裏の人が「これは絡まった毛糸なんだよ!」て言っているような感じ。要するに「いやわかってる、それはわかってる」という感覚が引き起こされたような感じである。

 

 

 物語の構造は、現在という点から過去への移動すなわち「点Cから点P」への移動を反復する構造となっている「ように見える」。重要なことは点F、すなわち未来という時制は常に否定されているということだ。通常、私たちは時間という概念を想起する時「過去・現在・未来」という時間階層を考える。しかし、未来という時制は実は存在しない。なぜなら、未来に起こる出来事の可能性は既に現在と過去に先取りされているからだ。劇中でも「未来人」の存在が囁かれるが、それはすなわち現在から遡ってきたものを示す言い方であり、特定の未来が存在することを示しているわけではない。この辺りがごちゃごちゃになっていると訳がわからなくなる。激しいカーチェイスが行われる場面では、シーン1と現在からシーン1に戻るシーン2が交錯するためシーン1から観たシーン2は未来からの飛来に見え、シーン2から観たシーン1は過去への逆行に見える。しかし、実際は時制がぶつかりあっている訳ではなく現在と現在が別の認識と運動法則によって構成されているだけだ。このシーンを理解するためのセンテンスが冒頭にある。未来からきた銃弾を女性研究員が可逆性の証明として「拾う」というシーンである。セリフを覚えてないいないのが致命的なのだが、ここで述べられていたことはある事象は見方によってどうとでも解釈できるというようなニュアンスだったように思う。それは、すなわち現在という時制がどのように構成されどのようなベクトルを持つかは見方次第であるという意味である。人が走っている映像を見てそれを「進行している」と認識するのはそれが時間のベクトルや因果関係(原因があって帰結が来る)という自明の原理と一致しているからである。逆再生した映像を「退行している」と認識するのはその原理に反発しているからだ。しかし、それは人間の認識の話であって自明だから絶対的な真理であるという訳ではない。要するに「時間が進む」「原因から帰結」は一般的に自明とされている通念であり、時間のベクトルは認識の仕方で変わるかもしれないし、「帰結から原因」も有りうるということだ(慣れ親しんだ原理を放棄して認識を覆すのは相当に難しいのでなかなかしんどいが)。

 

 

 未来時制の否定とカーチェイスシーンの構造を考えると、「ように見える」と言った意味が理解できるはずだ。要は点から点への移動ではなく、ある点から現在という時間のベクトルが逆向きになるのだ。これを可能にしているのがプルトニウム放射能を利用した回転扉のような機器である。それを通じて、時間のベクトルをコロコロ変えるのだ。構造は非常にシンプルなのだ。難しく感じるのは、構造の理解ができていないのではなくて、その構造を受け入れるOSを私たちが搭載していないためだと思う。WindowsiOSのソフトをインストールしても上手く起動しない(ある程度の互換性はあるにしても)。特定の認識、それもかなり親和性のある時間という概念の認識をリフォームし、受け入れる主体になることをこの映画は要請するのだ。個人的には、この映画の「難しさ」とはそこに尽きると思う。

 

 

 ここまで、「難しさ」の要因についてアレコレ考えてみたわけだが、謎解きはもういいかなという気分である。物語の構造や伏線について細かく分析しているブログは山ほどあるし、一回しか観てない人間が物知り顔でペラペラと語り尽くすのは正気の沙汰ではないような気がするからだ(もうそのような過ちを犯しているような気もするが)。ここからは感想とか物語に出てきた言葉からの連想なんかを書いてみる。

 

 

 率直に言うと、面白さは微妙。最もたる理由は主人公にどうも共感しづらい。物語の構造と現在性に極度に振り切っているために、主人公がどういう歴史を持って作品という舞台に立っているのかがよくわからない。過去作との比較で言えば、上述の「インセプション」の主人公は妻との関係性が徐々に明らかになり、主人公が何に苦悩しているのか、なぜ夢に潜るのかが鮮明になってくる。「インターステラー」なら宙への憧れを抱きつつも地球環境の悪化で、宇宙飛行士引退を余儀なくされた主人公が地球を救うため、愛する家族を守るために遠い星に向かう。これらの作品の主人公に共通するのは、それぞれ略歴があり映画内での行動の動機がはっきりと理解できるところだ。ところが、今作の主人公にはそれがない。名前もわからないし、映画内での行動原理も強い動機に動かされているからというよりも、任務をこなしているというだけの印象を覚える。「ヴィランの世界を逆行させて消滅させるという野望を打ち砕くため」という理由が存在しているから辛くも成り立っているが、何とも不均一ではある。ただ、万が一これが仕組まれている物だとしたらもう何も言えない。歴史とはすなわち「振り返ること」すなわち、ある点からある点を見て、認識する行為。もう気づいただろうか。この認識のあり方が映画内では否定されていることを。この映画では主人公の歴史は「順を追う」のではなく「順を下る」ことだとしたら。すなわち、主人公の行動は原因からではなく帰結から理解しなければいけないのだとしたら、、、(相棒ニールの素性が露わになる瞬間からしてその可能性は非常に高い)。と言っても帰結は遥か先の現在にあるので想像しなきゃいけないんだけどね。

 

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 最後に言葉に関して。劇中で組織の合言葉に使われている「黄昏に生きる」「宵に友なし」というホイットマンの詩。映画を観た後、ずっとどういう風に解釈すればいいか考えていた。数日経ってようやく自分なりの結論が出た。最初にわかりやすい言葉に置き換える。

 

 

「夕暮れに生きる」

 

「夜に友なし」

 

 

 そして、これを映画の構造とニールの存在から考えてみる。先ず、「夕暮れ」とは現在のことであり、生ある瞬間を指している。一方で「夜」とは死後の世界を指していると仮定する。「宵に友なし」とは死後の世界、すなわち先の現在で私たちは死を迎え、友とは離別すること意味しているとする。そしてそれは常に人間の生に付き纏う存在であり一歩間違えばという状況下で私たちは生きている。故に、私たちは常に夜の一歩手前を歩いてる存在でもある。それが「黄昏」と現在を結びつける。

 この解釈を踏まえて、ニールの存在について考えてみる。ニールは映画の終盤で判明するが、先の現在で主人公が現在に派遣した人間だった。そしてさらに先の現在から来たニールがこの現在で生きる名も無き主人公を救うために亡くなることが判明する。ここでのニールの存在はある種アンビヴァレントな含みを持っている。生きてもいるが、死んでもいる。主人公との最後の会話は印象深い。

 

 

ニール「どうやら、俺にとってはここで美しい友情が終わる」

 

 

主人公「でも、俺にとってはまだ始まりにすぎない」

 

 

 このシーンは個人的に好きなのだが、それは自分の運命に執着しないニールの人間性によるところが大きい。そして続く会話で彼は「運命は変えられないが、何もしなくていいわけではない」と述べる。彼はすなわち人間に付き纏う宵の宿命を受け入れながらも、生ある黄昏の時間にあらゆる物事に意味を与え、考え、行動することが重要だと示唆するのである。なぜなら、運命は時として美しい友情をもたらすのだから。

 

 

 時間概念を扱った作品として「メッセージ」があげられる。この映画の主人公ルイーズも来る運命を受け入れて前に進む女性だった。因果の逆転から思考することは難しいように思えるが、実はそうでもないと二つの作品を観て思った。なぜなら死は決定的だからである。生の結果はどう頑張っても死である。運命は変えられない。なぜなら生には死の可能態がしっかりと含まれている。

 

 

 「いつか必ず死ぬという変えられない運命を引き受け黄昏に生きよ」とニールは主人公に向かって言う。主人公には名前がない。何故無いのか。

 

 

 

そう、何故わざわざ無いのか。