ジョーカーを観た後の落ち込みが止まらない

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話題のジョーカーを観てきた。本作は、バットマンの悪役であるジョーカーがいかにして生まれたのかを描いたものだ。

 


ジョーカーはジャックニコルソンやヒースレジャーなど名優と呼ばれる俳優によってこれまで何度も演じられてきた。特に、僕世代の人はヒースレジャーの演じたジョーカーを強烈に思い出すに違いない。ダークナイト公開を待たずにこの世を去ってしまったヒースの演技は、その徹底した役作りによって観る者を畏怖し、また魅了した。ノーラン監督のバットマン三部作の中で、ダークナイトが圧倒的な評価を得るのは彼のジョーカーがいたからだと言ってもいいと思う。

 


今回ジョーカーを演じたのはホアキンフェニックス。すでに話題になっているので、知っている人も多いと思うが、役作りにあたって24キロの減量をしたそうだ(ハリウッド俳優の減量、増量は毎回ストイックすぎるのでちょっと心配になってしまう)。herで観た彼の姿とは全く違った形相なので最初は同一人物であることに気がつかなかった。

 


結論から言えば、彼の演技は素晴らしかった。身体の使い方から表情まで、アーサーという架空の男を見事に体現していた。ディテールへのこだわりはヒース演じるジョーカーにも引けを取らないものだった。

 


彼の演技で印象に残っているシーンが2つある。1つは、冒頭の楽屋で鏡に向かって涙が出るほど口角を引き上げるシーン。左目から一粒の涙が溢れ、目の化粧が落ちる。黒い涙が滴る。僕は冒頭のこのシーンで泣きそうになった。こんなにも悲しい人間の表情があるのかと。まだアーサーの人生に触れてもいないのに行く末を暗示させるかのような黒い涙。たったのワンシーンだがアーサーの悲しみがいかに大きいものなのかを感じた。

 


2つ目のシーンは尊敬するコメディアンの番組で自分の映像が流されたシーン。彼は感激して心の底から笑いをこぼす。アーサーは設定上の脳の病気で緊張すると笑いが止まらなくなるということになっている。そのため、劇中では「なぜここで」というタイミングで彼が笑いだす。ただその笑いはどれもネガティブなのだ。笑っているようで全く笑ってない。ただこのワンシーンだけは、本物の笑いなのだ。そしてそれがアーサーとしての最後の笑いになる。この笑いの微妙な変化を演じ切ったホアキンの演技力は並大抵のものではない。

 


ジョーカーと言えば、残虐で悪の親玉みたいなイメージがあるが、アーサーという男は決して悪ではない。彼の人生における境遇、病気、疎外される個性、どれも彼が望んでいるものではない。明らかな理不尽は偶然によってもたらされている。

 


彼の人生は転換点を得て(その転換点はいくつかあるのだが)、悲劇から喜劇へ変わるわけだが、それが同時にアーサーの人生からジョーカーの人生への転換となっている。決定的なのは警察から逃げる際にピエロの仮面をゴミ箱に捨てるシーン。なぜあのシーンがアップにされているのか疑問だったが、考えるうちにあれがジョーカー誕生の瞬間を暗示する重要なシーンなのではないかと思うようになった。すなわちピエロの仮面は「アーサー」を示しているのだ。アーサーという仮面を捨て去り、自由な生を、ジョーカーとしての人生を彼は歩み始める。

 


人間は誰しも二面性を持つものだ。「やめろ」という自分もいれば「やれ」という自分もいる。多くの人間は、その均衡を保ちながら世間を生きている。アーサーもそれは変わらない。しかし、彼のあまりにも理不尽な境遇は彼の二面性のバランスを破壊してしまった。そしてそこに現れたのがジョーカーであり、捨てられたのは孤独でひ弱、心優しい「アーサー」という仮面だった。

 

 

 

先の文で、ジョーカーの理不尽な境遇について触れた。彼が住むゴッサムシティは分断された世界である。富裕層と貧困層が入り混じり、不平等が蔓延している。象徴的なシーンは貧困層のデモが行われる中で、富裕層がチャップリンのモダンタイムスを優雅に感激しているシーンだ。

 


多くの批評ブログでも取り上げられているようにこれは現代のアメリカ社会を象徴しているものだと言える。トランプが大統領になって以来、アメリカ社会に大きな分断があることは散々取り上げられてきた。僕自身も大学時代アメリカ史に取り組んでいたので、その辺りの事情はなんとなく想像がつく。

 


最近のハリウッド作品は、社会問題に対して非常に敏感だ。エンドゲームの後半で女性ヒーロー陣が大活躍するシーンなどあからさまと言ってもいいほどの演出だった気がする。

 


ただ、この映画を観た多くの人が共感する理由はやはりこういった背景を現実と照らし合わせて考えてしまうからだと思う。誰もが感じている現実の不平等、堆積している不満、そういったものがこの映画では丁寧に描かれている。

 


終わりに

 


観劇後、近くにいた女性客が「まじでつまんなかった」と言っているのが聞こえた。この言葉は捉えようだと思う。

 


僕は「面白くなかった」と思っている。なぜなら笑えるシーンなど1つもなかったからだ。どのシーンをとっても悲しみが溢れる。ここまで映画を観て落ち込んだことはない(シャイニングを観た時は別な意味で落ち込んだが)。

 


だからといってこの作品を批判しているわけではない。映画としての完成度は非常に高いし、製作陣のこの映画にかける熱量を感じられる。

 


観に行って損はないが、くれぐれも入り込みすぎないようにしよう。

 

 

 

 

ビール体験をぽろぽろ語る(ゆるく)

 

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どうもお久しぶりです。ブログを更新してない間に大きい台風が2回も来ましたね。僕や僕の実家は特別大きな被害は受けませんでしたが、友人の中には被害をうけた方もいるようで。自然の力はとてつもないものだなと改めて実感しています。

 


更新をしてない間にビールも沢山飲んでました。神田のびあまやミッケラーのイベント、横浜のオクトーバーフェスト千住大橋のびあまベース、台風が直撃してなければ銀座のbeer to goにも行く予定でした。

 


今回はイベントの感想とか気付きとかをゆるめに語ろうかと思います。

 


まず、ミッケラーのビアイベント。ミッケラーはデンマークの会社ですね。確か渋谷にビアバーがあって目の前がラブホだった気がす、、、。それは置いといて、イベントについてですね。9月中旬の土日開催で場所は渋谷ストリームホール。イベント名MBCT(Mikkeller Beer Celebration Tokyo)。ミッケラーセレクトのブリュワリーが大集合しました。

 

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結構色々な国のビールがあったと思います。普段お目にかかれない北欧のブリュワリーが居て新鮮でしたね。

 


にしても、やっぱりイベントは流行が露骨に出るなあと。サワーエール、ミルクスタウトが多い多い。中にはこれビールかよってのもありました。サイダーに近いかな。面白いけど料金が高めなので考えものですね。

 


どうでもいいけどオムニポロのおじさん可愛かった。

 

 

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次に行ったのは、神田のびあま。大学近かったのに一度も行ったことなかったんだよね。一階がビアバーで二階はお土産コーナー。そこで買って立ち飲みもできる。フランクで時間潰すのにとてもいいかな。種類が多いのでジャケ見るのも楽しい。

 

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びあまの話したからついでにびあまベースの話もしようかな。こちらは千住大橋にあるお店。住宅街に突如現れるのでびっくりする。こちらのお店は結構上級者向き。元々オンライン販売で使っている冷蔵庫を解放している。カウンターで番号札をもらった後に、冷蔵庫に潜り思いのままにビール探しができる。これビール好きにはまじでたまらないです。

 

 

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で、オクトーバーフェストですね。これは行ったことある人も多いと思う。僕は初でした。どうしてもヴァイエンシュテファンのヴァイツェンが飲みたくてね。行っちゃたよね。そしたらなんと日本初上陸の無濾過ピルスナーをヴァイエンシュテファンが出してるじゃないですか。負けました。無濾過ピルスナー飲みました。麦の旨味全開で二条大麦になるかと思いました。美味しかったよ。で、そのあと500ミリのボック飲んで昇天しました。でかい酒愛好家にとってはたまらないイベントだろうな。僕は全然飲めないので1リットルでギブアップです。

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イベント関連の話はここまでにしてちょっとした気付きについて。

 


これらのイベントやお店ほとんど友人と行ってました。でまあ、みんなそんなにクラフトに詳しいわけではないので、僕がちょこちょこスタイルの説明をしてお好みを見つけるみたいなことしてたわけです。

 


で思った。

 


みんなIPA大好きじゃんか。

 


突如IPAとか言っても意味不明だと思うのでちょいと説明を。IPAと書いてアイピーエーと呼びます。いぱじゃねーぞ、いぱじゃ。インディアペールエールの略称です。由来はイギリスがインドの植民地化に乗り出していた時、現地に送るエールに大量のホップを投下(ホップには殺菌作用がある)しており、それが一つのビアスタイルになった、というものです。

 


このIPAまあ普通のビールより苦い。クラフトの入り口としては結構きついんじゃないかと最近まで思ってました。しかし、意外とみんな美味しい美味しいって言ってするする飲んでる。

 


でさらに思った。

 


ビールが苦くて嫌だと言っている人のほとんどは、実は麦の苦味に抵抗があるんじゃないかと。ちなみに、僕はずっとホップの苦味が大きな要因だと思ってました。

 


僕はクラフトの入り口がペールエールからだったのでどうしても初めにIPA飲んだ時は抵抗がありました。

 


ビールって麦の旨味があってなんぼみたいなとこもあるけど、ホップもめっちゃ大事だもんね。日本人の舌が意外とホッピーで驚いてます。

 


今度から初心者にはIPAをおすすめしようかな。

 

『ミュウツ―の逆襲Evolution』を観てきたというお話

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最後にポケモンの映画を観に映画館まで行ったのはいつのことだったろうか。久しぶりにポケモン映画を観に行ってきた。現在公開中(2019年7月現在)の『ミュウツ―の逆襲Evolution』である。まさかこの年になって観に行くことに、というより観に行きたいと思うなんて思っていなかったのだが、広告を観て「たまにはいいかな」と映画館に足を運んだ。

 

 映画本編の話に入る前に、自分のポケモン歴について軽くふれておきたい。自分がポケモンに親しむようになったのはアニメがきっかけだったと思う。4、5歳の頃だろうか。毎週木曜の夜は(確かそうだったと思うが)、テレビにくぎ付けで夕飯が進まなかった。ジョウト地方編をオンエアで観ていた世代だと思う。

 映画で最初に観たのは『ミュウツ―の逆襲』。ただ映画館ではなく、TSUTAYAで借りたビデオで観た記憶がある(懐かしきVHS)。映画館で観た最初のポケモン映画は記憶にある限りでは『水の都の護神 ラティアスラティオス』だと思う。子供ながらにヴェネチアのような美しい街並みを悠々自適に飛ぶラティアスラティオスの姿に感動した記憶がある。

数あるポケモン映画の中で名作と言われるのも頷ける。ちなみに僕は『七夜の願い星 ジラーチ』がポケモン映画の中では一番好きである。

 

 ポケモンと言えばやはりゲームである。元がゲームなので当然である。一番初めに手に取ったのはAGシリーズのルビーである。親の「ゲームは30分までだからね」という忠告に生返事を返しながら延々とプレイングしていた記憶がある。最初の三匹で選んだポケモンミズゴロウだった。しかしプレイングの仕方をよくわかってない7歳の僕はなぜか初期の段階でミズゴロウをボックスの肥やしにしてペリッパーポケモンリーグ制覇を目指すのである。ちなみにバランスよく育てるということを知らないのでペリッパーグラードンしか使い物にならない手持ちを構成していた。なんだかんだ一番プレイングしていて楽しかったのは第三世代と呼ばれるこの時期だったかもしれない。

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 実は、大学生になってからもポケモンはやっていた。それぐらいポケモンへの愛着はある。サンムーンに加えてウルトラサンムーンのシリーズもやった。ただ大学生時代のポケモンはレート大戦(オンライン対戦)が自分の中では主流で、楽しくはあったが苦しくもあった(このレート大戦というのをやると非常にポケモンバトルというものが奥深いものであることがわかる。ポケモンバトルとは努力、知識、運、その全てが注ぎ込まれるものなのである。これについて語り出すと、個体値努力値、育成など一般的にストーリーを楽しんできた人にはチンプンカンプンなことを延々と語ることになるのでここでは慎む。興味があればググるか、僕にあった時に直接聞いてほしい)。

 

 このように自分のポケモン歴を振り返ると、案外自分の人生とコネクトしている部分が多いことに気付く。ポケモンから学べることは多い。生き物と触れ合うこと。知らない場所に勇気を出して冒険にでること。勝つために戦略を構築すること。結局は運だということ(急所にあたる等)。社会で生きていく上で重要なことを自然に考えてプレイングしていることに気付かされる。そういう意味で、やっぱりポケモンは偉大なゲームだと僕は思う。

 

 軽く語ると言って、長く語るのが僕の悪い癖。本題に入ろう。今回の映画の話である。現在公開中の『ミュウツ―の逆襲Evolution』は、簡単に言ってしまうと『ミュウツ―の逆襲』のCG版リメイクである。観ればわかるのだが、本編は映像の構図や出てくるポケモンなど旧作と微妙に違う箇所などがあるもののほとんどは変わらない。唯一大きく変わっているのが、ミュウツ―を創り出した博士の娘アイとミュウツ―のエピソードが一切カットされているということだ。エピソードは本編を、というよりミュウツ―がなぜ人間に逆襲しようとするのかを理解する上で欠かせないエピソードであった。

 

 簡単にこのエピソードを説明する。ミュウツーを創り出した博士は「世界最強のポケモンを創る」と研究に打ち込み、ミュウのまつげの化石からミュウツ―を創り出すことに成功する。しかし、これは博士の研究の一つに過ぎなかったのである。ポケモンのクローンを創ることが目的ではなく、DNAから幼くして亡くなった自分の愛娘を複製することが博士の真の目的だったのである。そして、ミュウツ―同様博士は娘の複製を実現する。クローンとして創られたミュウツ―とアイツ―(娘のクローン)はお互いテレパシーを通じて深い夢の中で、交流を深める。しかし、アイツ―は不安定な状態に陥り、最終的に研究は失敗してしまう。深い夢の中から去っていく前にアイツ―はミュウツ―に「生きるって、ね、きっと楽しいことなんだから」と言い残す。このエピソードがミュウツ―に「生とは何か」という疑問を抱かせ、本編の逆襲へと向かわせるきっかけとなっている。

 問題は、公開中の作品にこのエピソードが全くないことである。博士はただ世界最強のポケモンを創ろうとしている悪者科学者として描かれ、ミュウツ―は人間の道具として生み出されたことに対する葛藤から人間に反逆を試みるポケモンとして描かれている。

 確かに市村正親の声で発せられる「ここはどこだ」「私は誰だ」「私は何のために生きている」という言葉は非常に重く観る者に生の疑問を突きつける。特に「何のために生きているのか」という問いは、僕たち鑑賞者の耳に鋭く突き刺さる。大人なら尚更かもしれない。レールの上を歩いて育っている子供にはなかなかわかりにくい実感のない問いかもしれないが、社会で働く大人にとって「何のために生きるか」という問いにどのような答えを持つかは、日々働き生活する上で大きな問題である。映画の答えとしては「何のために生きるか」は与えられるものでも、最初から決まっているものでもない。生きていく中でそれぞれが獲得していくものである、と述べているように感じられた。確かに、映画全体としてミュウツ―というポケモンを通じ一つのメッセージ(もしくは複数の)を伝えようとしていることはわかる。しかし、そしてやはり、アイツ―のエピソードがないとストーリーとして完成されていない気がしてしまう。ミュウツ―が逆襲に向かうまでの動機が弱すぎる気がしてしまうのだ。

 

 上記のように思ってしまうのはやはり旧版と比べてしまうからだろう。実際、映画自体はとても楽しめた。隣の子供連れの奥さんが泣いていたのも頷ける。ムサシはナイスバディだし、ニャースはやっぱり可愛い。

 

 最後に今回の映画を注意深く観ていて気付いたことがある。ミュウツ―の発する「ここはどこだ」というセリフ。重みがあり、自らの存在に対しての哲学的な示唆を含む言葉だが、実は映画の最後に意外なかたちでそれに対する答えが提示されているかもしれないと今回鑑賞して思った。旧版にもそのシーンはあったと思う。それは、ニューアイランド島での記憶を全て消されて港のポケモンセンターに再び戻されたシーンにあった。サトシとカスミの会話である。

 

「俺たち、なんでここにいるんだっけ」

 

「いるんだから、いるんでしょ」

 

「まあいっか」

 

 

 

語りたくなる旅の思い出(NY②)

 

ニューヨーク2日目。21時就寝からの6時起床。おじいちゃんばりの健康的なスタートを切り、素晴らしい観光1日目が始まった、、、、と綴りたいところなのだが、、、、なのだが、、、、。

 


朝といえばやっぱりブラックコーヒーである。半分寝ぼけながら、水を沸かすために電気ケトルをIHコンロの上にのせてスイッチを入れた。「昨日スーパーで買った米国版カップヌードルでも食べるか」とぼんやり買い物袋を眺めながら沸騰するのを待っていた。

 

 

 

水を沸かすために電気ケトルをIHコンロの上にのせてスイッチを入れた。

 

 

 

電気ケトルをIHコンロの上にのせてスイッチを入れた。

 

 

 

電気ケトルをIHコンロの上に

 

 

 

 


「ジュー、ジュー、シュワシュワ」

 


「?」

 


「モワモワ〜、モワモワ〜(煙」

 

 

 

時すでにお寿司!

 

 

 

「!?杏さん杏さん杏さん杏さん、やばいやばいやばい、俺やったわ」

 


ソファーベッドで眠る杏さんのもとに飛んでいく。寝起きのボーとしてる顔にことの顛末を話すと、「馬鹿なの?」と言われ「確かに臭い…てか部屋に煙充満してるじゃん」と流石に事態の深刻さを悟る。無駄に豪華な我らが宿には一酸化炭素検知器がついていたのである。一酸化炭素が出ていなくても、もしこの豪快な煙に反応して誤作動してしまったら「ケトルをメルトしちゃいました」ではすまないのである。

 


2人でキッチンにすっ飛んでいき、ケトルの様子を確認する。スイッチは止めてあるものの、温度はなかなか下がらない。ケトルの底はドロドロである。いやもうほっんとドロドロである。

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こうして僕たちの観光初日は煙の匂いが残る部屋から始まった。

 

1. The high line
まず、最初に向かったのはハイラインと呼ばれる場所だ。Gansevoort stから34stまで続く電車の廃線を使った公園と散歩道が融合したような場所。歴史とか詳しいことはウィキに任せるとしてなかなか良い場所だった。ビルの3階あたりの高さにあるので、街の景色を地上は違った形で見渡すことができる。道のあちこちにアートワークもちらほら。全長も5キロほどで朝の散歩にはちょうどいい。冬だったので道の脇に植えてある植物は枯れていたが、春や夏には緑が溢れるらしい。個人的にはおすすめのスポットだ。

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2. Times Square 
次に向かったのがタイムズスクエア。ニューヨークと言えばみたいな感じだが、正直一度行けばもういいかなという場所。脇には様々なブランドのショップが立ち並ぶ。空間や匂いの感じは新宿に似ている。唯一違うのは色が多いこと。動く広告や店の看板、どれをとっても色が鮮やかで多い。そのせいか、タイムズスクエアを少し高い場所から見下ろすと少し壮観な感じがする。

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ここを歩いているとディズニーキャラクター被り物をした人に声をかけられることがあるが、無視したほうがいい。写真を撮った後にお金を請求される(東海オンエアのゆめまるとてつやも請求されてたよね)。

 

3. Midnight comics
次に向かったのはmidnight comics というお店。日本でいうところのアニメイトみたいなお店である。タイムズスクエアをふらふらと散歩していたら偶然見つけてしまった。中はまさにオタクの聖地とでも言えるのではないかというぐらい、ぎっしりと漫画やアニメのグッズが置かれている。特にアメコミの雑誌とグッズはめちゃくちゃ充実している。勿論、日本の漫画もたくさん売られていた。日本の漫画ってここまで英語版が出ているのかとその影響力の強さに衝撃を受けてしまった。

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4. Union Square 
オタク文化を堪能した後は、ユニオンスクエアへと向かう。このユニオンスクエアでは土曜日に市場が開かれている。果物やパンといった食べ物から手作りの雑貨まで様々なものが売られている。

今回、僕はどうしてもこのユニオンスクエアの市場に来たかった。当然お目当てのものがここにあるからである。それは前回ここに来た際食べた、アップルパイをもう一度食べるためである。それはもう前回それを食べた時の衝撃といったらもう、ね。今まで自分が食べてきたアップルパイは全てもどきだったんじゃないかと疑ってしまうぐらいである。

市場を歩き回っていると見覚えのあるお店が。早速、お目当てのアップルパイを買う。横のベンチに座ってサクッとひとかじり。

 


あああ〜〜、生きててよかったぁ〜

 


やっぱり美味い。バターを豊富に使ったサクサクの生地、オーガニック林檎のナチュラルな甘さ、そしてそれらを引き立てるシナモンの香り。思わず口元がメルトダウンする。味わうのに夢中で写真なんか撮っている暇がない。最高のひと時だ。ユニオンスクエアの名物といえばサイダードーナツだが、僕はアップルパイをおすすめしたい。

 

5. Shake Shack
ユニオンスクエアでアップルパイを満喫した後は、マディソンスクエアパークへ。僕たちのお目当てはshake shackというハンバーガーのお店である。最近日本にも進出したこのお店、本場はニューヨークなのである。レジの列に並ぶと黒人のiPadを持ったお姉さんが声をかけてくる。このお店なんとiPadで注文を完了させることができるのだ。たどたどしい英語で話す僕たちにも丁寧にオーダーの仕方を教えてくれた。僕たちが頼んだのはこれ。

 

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間に挟まっている謎の揚げ物。恐る恐るかじってみるとこれがとても美味しい。カマンベールチーズのフライなのだ。お肉も肉厚でジューシー。やはりちゃんとしたお店で食べるハンバーガーは美味しい。ちなみにこれは余談だが、日本のshake shackで売られているこのお店のオリジナルビール、弊社が製造している。日本でshake shack に行く時はハンバーガーと是非弊社のビールも飲んでいただきたい。

 

6. Central Park 
たらふく食べるとやはりカロリーが気になるところ、軽い運動もかねてセントラルパークへ。セントラルパークはとにかく広い。雰囲気はなんとなく代々木公園に似ているところがあるが、規模が桁違いである。

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公園内はランニングをしている人がたくさんいる。流石はエクササイズ大国、皆ランニングスピードが早く走り慣れている人が多い。

せっかくなので縦に公園を横断してみようと、各名所を周りながら歩いてみたが2時間以上歩くことになってしまった。最初は「珍しいポケモンがいっぱいいる!」と元気満タンだった相方の杏さんも後半になってくると流石に疲れたようで「足痛いな」とポケモンgoを閉じてしまった。

 


この日の観光は、これでおしまい。宿近くのスーパーで夕食の材料と電気ケトルを購入する。しかし、この日は朝から夜までとことんついていなかった。パスタを食べるつもりでトマトソースの缶詰を買ってくるも宿の部屋に缶切りが無かったのである。缶詰は開かなければ当然何の意味もない置物である。何か開けられるものはないかとスーツケースを漁っていると、なぜか車の窓ガラスを破るための鈍器が入っていた(教習所でもらうやつ)。思いつく限り手段がないので、それで缶詰の蓋をこれでもかというほど叩く。アメリカの、しかも高層マンションの35階で自分は何をやっているんだという気持ちになる。しかし、頑張ってみるものである。なんとか缶詰を開けることができたのだ。やったー!と料理を作り始めた瞬間に脳裏に今更といった感じである考えがよぎる。

 


缶切り買ってくれば良かったのでは?

 


アホたちの旅はまだまだ続く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

語りたくなる旅の思い出(NY①)

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 日常の生活を離れて、普段目にしない雄大な景色を見に行ったり、食したこともない珍味を楽しみに行ったり、旅には様々な楽しみ方がある。この記事を読み始めたあなたにも、旅先でのちょっとしたハプニングや現地の人との心温まるエピソードをもっているのではないだろうか。

 

 大学時代あまり旅行に行ったという記憶がない。「あれだけ自由に使える時間があったのになぜ」と言われると、「なぜだろうね」となってしまうのでどうしようもない。今さら後悔したところで、失われた時間が戻ってくるわけでもないので、そうだったという事実を受け止めるしかない。

 

 数少ない旅行の中でも、一番自分の思い出に残っているのはニューヨークだ。なんといっても、2回の海外旅行のうちの2回がニューヨークなのである。一回目は、ゼミの友人と行き、二回目は高校の友人と卒業旅行として行った。「せっかくなんだから別の場所に行っても」と思うのが普通なのかもしれない。僕自身も二回目の旅に出る三か月前までは、ニューヨークにもう一度行こうと思ってはいなかった。

 

 心変わりは突然に来るものだ。インスタグラムのストーリーをぼんやりと見ていたら、急に見覚えのある風景が映った。それは、JFK空港のタクシー乗り場の風景だった。ストーリーの投稿者は鈴木真海子で、iriとニューヨークに来たという内容だった気がする。その風景を見た瞬間に、JFK空港の空気やアジア系のウーバー運転手とかみ合わない会話をしたこと思い出してしまった。不思議なもので、思い出というものは溢れ始めてしまうと溜めすぎた風呂のお湯のごとくドバドバと流れ出してくる。もう一度行きたい。あの場所にもう一度立ちたい。インスタグラムを閉じた時、すでに僕は二回目のニューヨーク行きを決心していたのだ。

 

 問題は、卒業旅行同行者の友人Aこと杏さん(仮名)の了解を得ることである。一週間前まで「ハワイの島々に効率良く行くにはどうするか」と真剣に話していたやつが急に「ニューヨークに行くわ」と言い出したら、たいていの人だったら「ちょっと待て」となる。恐る恐るラインで「ニューヨークにしない?」と送ると数時間後に返信が来た。

 

 

「ええよ( ^^) 」

 

 

 そんなわけで、二回目のニューヨーク行きが決まった。

 

一日目

 朝10時の便で羽田からの出発である。当然起床も早い。5時に起きて、5時半の電車に乗る。ここで何を思ったか、電車に乗りながら僕は杏さんに「やっべぇ、今起きた」というメッセージを送った。嫌なやつである。変なタイミングで嘘をつくものだから、集合場所の池袋で待つ杏さんの顔がいくらか不機嫌に見えた。

 

 羽田に着き、チケットやポケットWi-Fiを揃える。朝食も適当にしかとっていないので、空港内の吉野家で軽い昼食をとることにした。僕はチーズ豚丼の大盛を頼んだ。余談だが、僕は数年前から吉野家に入るとこれしか頼まない。以前、吉野家で牛丼を食べていた時に明らかに不健康そうな太っちょの禿げたおじさんが嬉しそうに「チーズ豚丼!」と注文していた。この光景がなぜか脳裏に焼き付いてしまい、それ以来吉野家で注文しようとすると僕もおじさんと同じように「チーズ豚丼!」と言うようになってしまった。

 

 ひどく脱線してしまったが、吉野家で軽めの昼食を食べた僕らは一時間後に日本から飛び立った。さて、長いフライトが始まった。2時間後に機内食が出てくる。AセットとBセットが選べるわけだが、内容はカレーか天丼。昼食は吉野家である。何か渋いものでも食べたのかと言われそうなくらい渋い顔で野菜カレーを食した(ちなみに言うとおいしかった)。 

 

 ニューヨークまでは大体12時間から13時間のフライトになる。如何せん、5時間もすると何をしていいかわからなくなってくる。映画も二本観るのが限度だし、ガイドブックも散々眺めているので飽きてくる。「だったら寝ろよ」ということなのだが、飛行機で眠れないタイプなのである。持ってきた哲学の本を一時間に2,3頁という極度に遅いペースで読むも集中力を欠いて頭に何も入ってこない。

どうしよもなくぼんやりと飛行機の窓から外を見ると、街の美しい灯りがぼんやりと見えた。深い暗闇の中にポツリと浮かんでいるもの。都市といってもいいほどの灯りの集団。様々な街の風景が流れていく。この光景を見て僕は、映画「魔女の宅急便」でキキが初めて空を飛ぶシーンを思い出してしまった。

 

 長いフライトを終える。やっとニューヨークに到着である。JFK空港に降りる前にロングビーチの風景が見えた。細長いビーチの波打ち際が朝日の光を浴びて美しく煌めいている。空港から出て思いっきり空気を吸い込む。僕はまたあの場所に立ったのだ。早速、今回の宿があるジャージーシティに向かう。このジャージーシティという街は、マンハッタン島対岸にある町である。JFK空港はブルックリン区にあるので、一度マンハッタンまで行きそこからさらに対岸に渡らなければいけない。

 

 地下鉄で向かうわけだが、どうにもこの地下鉄というやつが曲者である。空港から一つ目の駅とそこから先のメトロカードを別々に買う必要があったりする。乗り放題を買ってしまえば、七日間地下鉄使い放題である。とりあえず、地下鉄でジャージーシティのニューポートという駅まで向かう。

 

 駅を出てすぐに今回の宿を見つけることができた。毎度のことなのだが、宿はエアビーを利用している。落ち着く空間と何よりキッチンを自由に使えるので現地の食材を毎日のように楽しめる。

 

 それにしても、今回借りた家は想像以上にとんでもない家だった。事前になんとなくの風景と設備の有無などは見ていたのだが、期待のはるか上をいくものだった。宿は高層マンションの35階。家の窓からはジャージーシティの風景が一望できる。おまけに、夜にはビリヤードの施設が無料で使える。あいにく冬だったので、使用しなかったが屋外プールも完備されていた。

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 とまあ、宿のすごさに圧倒されつつ、チェックインをするためにフロントに向かう。しかし、なぜかフロントがカギを渡してくれない。最初は、英語がダメすぎて話が通じていないのかと思ったがどうもそういうわけでもないらしい。フロントがそもそもホストから鍵をもらっていないと主張するのだ。これは、どういうことだとすぐさまホストに連絡すると「鍵の渡し方変えたよ、非常階段の消火栓の裏に置いといたから」という返信がきた。先に言えや。という感じだが、こちらも実はうっかりミスをしていた。てっきりチェックインの15時になっているものだと思っていたのだが、現地時間はまだ13時だったのである。つまり日本時間午前3時を示している時計を見て勘違いしていたわけである。眠れないまま13時間揺られ続け、疲れきっていたのだと思う。

 

 フロントでもぼんやりしていても仕方がないので、重いスーツケースを引きずりながらニューポートの付近を散策した。対岸からはマンハッタンのビル群を丸ごと見ることができる。以前、来たときも思ったのだがレゴブロックでつくられたような街並みだ。

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 2時間の散策を終えくたくたになった僕らは、スーパーで買った冷凍ぺパロ二ピザを食べる。なぜだかわからないが海外で食べるピザはめちゃめちゃ美味しい。疲れた体にチーズとトマトソースの甘さがしみる。その日は、疲れてしまいお互いに「もう寝よう」と早々と布団にくるまってしまった。僕たちの旅が始まった。

 

 

 

 

 

 

 

対面性の欠落<第一次世界大戦の暴力について>

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はじめに

  現在、私たちは第一次世界大戦をどのように考えているだろうか。第二次世界大戦に比べるといささかその存在ぶりは影が薄くなっているというのが現状ではないだろうか。先の大戦に比べて、印象が薄い理由はいくつか挙げられる。第一に、第一次世界大戦の主戦場がヨーロッパであったことがあげられる。確かに、日本は参戦していたが、第一次世界大戦の大きな特徴である塹壕戦を日本は経験していない。また、教科書記述が大戦そのものよりも中国進出政策や大戦景気などといった記述によっているということが言える。参戦国としての当事者意識の希薄さや戦争の実感の欠如の基底にはこれらの理由をあげることができる。このような第一次世界大戦の記憶の腐敗に対応するために第一次世界大戦を見つめ直すことは非常に重要なことだと思われる。第一次世界大戦においての重要な問題はいくつかあるだろうが、ここではあまり触れられていない問題、しかしその後の世界に大きな影響を及ぼし続けている問題について考えてみたい。それは、すなわち「対面性の欠落」である。

 

対面性の欠落

 第一次世界大戦は、それまでのどの戦争よりも多くの死傷者を出した戦いであった。ジョージ・ケナンによれば、この戦争は歴史的に前例のない暴力の発動である。この戦争の後に続く様々な戦争は継続して大量の死と殺害を生み出した。第一次世界大戦破局の原点であると彼は述べる。これは大半の歴史家たちが認める1つの見解である。今回は、この見解にさらに踏み込む。なぜ、前例のない暴力が発動したのか。なぜ、残酷としか言えないレヴェルにまで人は暴力を行使したのか。その問いに対する1つの答えが、「新兵器の登場」とそれに伴う「対面性の欠落」である。最初に、戦いの歴史の中で、第一次世界大戦がどのような位置にあるのかを確認するために、決闘の歴史を参照する。決闘は、対面性が大きく作用したという意味で、大いに参照する価値のある出来事である。そして、「新兵器の登場」を受けて戦いのあり方がどのように変わったのか、「対面性の欠落」はいかに暴力を拡大させたかについて考察していく。

 

決闘の歴史

 まずは、決闘の歴史である。大浦康介によれば、決闘は優れて対面的様式である。中世以来、決闘は生死をかけた真剣勝負の場であった。私たちが参照するのは、近代以降の決闘についてである。

 近代の決闘は、「名誉の決闘」と呼ばれた。決闘の作法は「名誉コード」と呼ばれた。それは、決闘という報復手段が「高潔」なものでなければならないという考え方に起因する。その考え方・作法に基づいて「高潔さ」を維持するために、決闘には介添人がつけられた。彼らの、最大の役割は不正が無いようにフェアな闘いを保証することであった。闘いは当然、1対1の正面きっての対面様式の闘いでなければならなかった。決闘をするものは、ピストルでの闘いであっても、互いの顔が見える位置で闘うことが要求された。決闘は、対面の闘いであり、「対面性」との闘いでもあったのだ。

 決闘が担った役割にも注目したい。すなわち、「ふるまいの規範」を示すものとして機能したのだ。決闘の慣習は「名誉」の観念だけでなく「礼儀正しさ」や「丁重さ」を教えるものでもあったのだ。

 決闘は貴族階級の没落とともに、急速に時代の共感を失い衰退していく。しかしこの決闘衰退の根底に対面性に関わる人間関係の能力の低下が関わっているとは考えられないだろうか。

   決闘はなぜ衰退したのか。決闘の慣習はとりわけフランスで長く維持されていたものだが、第一次世界大戦を機に突如衰退の一途をたどる。ここでの問題はなぜ、第一次世界大戦がその決闘衰退の始まりになったかということである。

 第一次世界大戦が決闘の終止符となったと言われるのにはいくつかの理由がある。代表的なものは、未曾有の犠牲者を出したこの戦争が、私的怨恨に基づく流血は無意味でとるにたらないものであるという印象を与えたというものだ。しかし、私たちがここで注目するのは、別の視点からの考察である。すなわち、第一次世界大戦を境に戦争自体が決闘的なものではなくってしまったのではないかというものだ。

 かつての戦争は、決闘が個人の間の闘いであったのと同様に、国や地域間での「集団的な決闘」であった。決闘においても、戦争においても「cartel」と呼ばれる書状を送るのが宣戦布告を意味していた。その宣戦布告は、身分を明らかにするという行為であり、相手を対等者と認めて、フェアな戦いをするというある種のモラルを含意していた。また、戦争において「名誉の戦場」といった言葉が使われることからも、戦争と決闘の間に相互参照があることは間違いないと言える。

 戦争が決闘的なものでなくなったのは上記で述べられたような「作法」の風化だけではない。新兵器の登場や脱身体化、またそれに伴う兵法の変化にもその原因が考えられる。

 

リヒトホーフェン

 第一次世界大戦は見えない敵との戦いであった。アントワーヌ・コンパニョンはこれを「死がやみくもに襲ってくる戦争、死が空から降ってくる戦争、殺すものと殺されるものが顔を合わせることが無い戦争」と表現した。また、藤原辰史は機関銃の登場について「騎士道精神のなごりをほとんど消し去った」と述べている。藤原の述べる「騎士道精神」は「決闘精神」と言い換えても遜色はないだろう。

 第一次世界大戦において上記で述べた「騎士道精神」のなごりを最も残していたのは、戦闘機の空中戦だった。戦闘機のパイロットが「空の騎士」と呼ばれたことからもそれは示唆されていると言える。戦闘機の前身としての航空機の役割は、基本的には敵地の偵察であった。それが徐々に航空部隊の規模が拡大されるにつれて役割も増え、航空機同士の戦闘・爆撃や地上爆撃などにも使われるようになる。それに伴って航空機は、偵察機・戦闘機・爆撃機といった風に分化していった。大衆化した戦争の中で、撃墜数の多いパイロットは英雄視された。有名な「空の英雄」と言えば、やはりマンフレート・フォン・リヒトホーフェンだろう。彼は第一次世界大戦において前人未到の80機を撃墜し、敵から「レッド・バロン」として恐れられた。しかし、ここで注目したいのは彼の戦闘における姿勢である。史実に基づいて作られた映画からも彼の人柄が伝わってくる。例えば劇中で彼の指揮した飛行隊(「空飛ぶサーカス」と呼ばれた)に空中戦での戦い方に関して次のように語る。

 

「撃墜が目的であり、殺すのは目的ではない。だから落ちていく相手を撃ってはいけない。我々はスポーツマンであり、虐殺者ではない。情けを持って戦うべきだ」

 

 彼はその活躍から軍人としては最高の名誉であるプール・ル・メリット勲章をヴィルヘルム2世から授与されている。

 このように、「騎士道精神」はかすかに残っていたと言える。しかし、地上戦の悲惨さを目の前にすると「決闘的精神」の欠落、所謂「対面性」の低下は明らかだった。毒ガスに対抗するためのガスマスクの着用、戦車の登場、塹壕戦。あらゆる場面でそれまで人間が大切にしてきた「対面性」は消えていった。空中戦のような「対面性」が保たれた戦場があったことは事実だが、それに勝る勢いで戦場から「対面性」が無くなっていったのも事実なのだ。

 

終わりに

 物理的な距離と心理的な距離、そしてその間に生まれる「対面性」は新兵器によって、そしてそれに伴う「騎士道精神」の崩壊によって没落した。藤原はこの戦争から使われた兵器を「遠隔的暴力」と呼び、それは敵を殺害したという実感から免れることができる暴力だと述べた。これらの暴力はそれ以後あらゆる形で表出し続け、現在にまでいたる。ホロコーストや原爆、湾岸戦争、そしてイラク戦争など様々な場面で「遠隔的暴力」は使われた。これらはまさに「対面無き暴力」に他ならない。対面性の無い空間では人がいとも簡単に虐殺をする。近年、無人機を操縦するアメリカ兵がゲーム感覚で空爆を行っている映像が流出し問題となった。彼らの行為はまさしく「対面性」の無い空間で生じた出来事である。そして、第一次世界大戦はその空間が最初に表出したという点にいて私たちにとって重大な戦争であったとは言えないだろうか。現代にまで続く暴力の連鎖を考える上で私たちに新たな視点を与えてくれるのではないか。

 

参考文献・資料

・木村靖二『第一次世界大戦ちくま新書、2014年

・大浦康介『対面的<見つめ合い>の人間学筑摩書房、2016年

ニコライ・ミュラーション監督『レッド・バロン』(配給:ブロードメディア・スタジオ、2008年)

・『新・映像の世紀 第1集:第一次世界大戦・百年の悲劇はここから始まった』NHK日本放送協会)、2015年10月25日放送

 

 

 

第2回「ビールのおはなし」

 

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「ビールて色々あるやん」

 

「おん」

 

「エールてあるやん」

 

「おん」

 

「あれは何?」

 

「あーっと、、、それはね

 

 

 はい!ということで「ビールのおはなし」第二回のテーマは

 

ビールとは何?エールとは何?

 

 みなさん、普段飲んでいるビールがどんな飲み物か知っていますか?知らないわけないですよね。はい、今日のブログはおしまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あ?知らない?

 

 

 

ビールは定義できるのか

 最初に考えてみたいことは、ビールは定義できるのかということ。率直に言えば「これがビールの定義だよ」というものは実際ありません。酒税法によって発泡酒などと区別するために定められたビールの定義は確かにありますが、それは日本の法律の範囲内での話で厳密な定義は実は存在しません。例えば、ベルギーのビールに多いスペシャルビールなどは副原料の多さなどから法律上日本国内ではビールという扱いをされないことがあります。しかし、それっておかしな話ですよね。だってスペシャルビールなのに。

 

 歴史を振り返ればビールを定義しようという動きがなかったわけではありません。1516年にバイエルン公国のウィルヘルム4世は「ビールは大麦、ホップ、水のみを原料とすべし」という内容のビール純粋令を出しています。実際、これはビールを定義することが目的というよりも、重要な産物であったビールの品質を下げないためのものだったと言われています。ただ、現在に至るまでビール原料の基本的な定義はこの純粋令を基準に考えて問題ないと思います。

 

 原料の定義の他にもいくつかビールに特徴的なことはあります。その一つは、ビールが単行複発酵酒だということです。基本的に酒は、酵母による発酵(糖からアルコールと炭酸ガスを生成すること)によってつくられます。原料には糖が最初から含まれているものと含まれていないものがあります。ワインなどの場合は、葡萄に糖が含まれているので変な話その辺にほっといても自然酵母で発酵するかもしれません。こちらを単発酵酒と言います。一方でビールは原料に糖が含まれていないため原料中のデンプンを糖化させる必要がある酒です。これが上で述べたように単行複発酵酒と呼ばれるものになります。これもビールの特徴と言えます(ビールがどうやってできるかはまたいつか)。下の図の黄色のマーカーで括ってあるところが糖化の過程になります。

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エールとは何か

 さて、ここまでビールの定義や特徴について話をしてきました。次はエールとは何か探ってみましょう。実はここまでの話がエールを理解するのに重要になってきます。なぜならエールと日本で私たちが普段飲んでいるラガーと呼ばれるビールの違いは大まかに言って発酵スタイルと酵母の違いに起因するからです。上面発酵酵母を使って発酵させるのがエール。そして、下面発酵酵母を使って発酵させるのがラガーと呼ばれるビールになります。基本的に上面発酵させる場合は15℃~25℃で3~5日間の発酵となります。そして、酵母自体が浮遊性酵母なので液面に酵母が浮いてきます。それに対して、下面発酵の場合は10℃で長い期間の発酵が必要になります。また、こちらの酵母は凝集性のため下に沈殿します。

 

 ラガーとエールの区別は、ビアスタイルとは異なる区別になります。まず、エールとラガーの区別があり、そこからそれぞれのビアスタイル(ヴァイツェン、へレス、ポーター、ピルスナーなど)に分かれていきます。普段、日本国内で大手のメーカーから売られているビールは主にラガーに分類されるものです(詳細に言えばピルスナー)。私たちにとってはラガースタイルのビールが馴染み深いですが、歴史的にエールの方が歴史は長いです。ラガースタイルのビールが登場するのは15世紀に入ってからになります。

 

 で、これ知っている人はかなりマニアックだと思うのですが、もう一つ発酵の種類があります。それが、野生酵母を使った自然発酵のビールです。ランビックと呼ばれます。このタイプは酵母の種類以外にも様々な特徴があります。ブリュッセルとその近郊以外でつくられるもの以外は正式なランビックとは認められなかったり、酸化したホップを使ったりします。自分は何度か飲んだことがありますが、いずれにしても複雑な味で形容できる語彙を見つけることができませんでした。

 

 

終わりに

 少し短いですが、今回はここまでにしたいと思います(あまり詰め込んでも飽きるし)。これから先もビールに関する情報をちょこちょこ普通の記事の間に書きたいと思います。ビアスタイルとかの話ができればいいなぁと思っているのですが、余りにも種類が多いので、次はビールができるまでについて書こうかなと思っています。それでは、次回の「ビールのおはなし」でお会いしましょう。バイバイ!