『ミュウツ―の逆襲Evolution』を観てきたというお話

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最後にポケモンの映画を観に映画館まで行ったのはいつのことだったろうか。久しぶりにポケモン映画を観に行ってきた。現在公開中(2019年7月現在)の『ミュウツ―の逆襲Evolution』である。まさかこの年になって観に行くことに、というより観に行きたいと思うなんて思っていなかったのだが、広告を観て「たまにはいいかな」と映画館に足を運んだ。

 

 映画本編の話に入る前に、自分のポケモン歴について軽くふれておきたい。自分がポケモンに親しむようになったのはアニメがきっかけだったと思う。4、5歳の頃だろうか。毎週木曜の夜は(確かそうだったと思うが)、テレビにくぎ付けで夕飯が進まなかった。ジョウト地方編をオンエアで観ていた世代だと思う。

 映画で最初に観たのは『ミュウツ―の逆襲』。ただ映画館ではなく、TSUTAYAで借りたビデオで観た記憶がある(懐かしきVHS)。映画館で観た最初のポケモン映画は記憶にある限りでは『水の都の護神 ラティアスラティオス』だと思う。子供ながらにヴェネチアのような美しい街並みを悠々自適に飛ぶラティアスラティオスの姿に感動した記憶がある。

数あるポケモン映画の中で名作と言われるのも頷ける。ちなみに僕は『七夜の願い星 ジラーチ』がポケモン映画の中では一番好きである。

 

 ポケモンと言えばやはりゲームである。元がゲームなので当然である。一番初めに手に取ったのはAGシリーズのルビーである。親の「ゲームは30分までだからね」という忠告に生返事を返しながら延々とプレイングしていた記憶がある。最初の三匹で選んだポケモンミズゴロウだった。しかしプレイングの仕方をよくわかってない7歳の僕はなぜか初期の段階でミズゴロウをボックスの肥やしにしてペリッパーポケモンリーグ制覇を目指すのである。ちなみにバランスよく育てるということを知らないのでペリッパーグラードンしか使い物にならない手持ちを構成していた。なんだかんだ一番プレイングしていて楽しかったのは第三世代と呼ばれるこの時期だったかもしれない。

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 実は、大学生になってからもポケモンはやっていた。それぐらいポケモンへの愛着はある。サンムーンに加えてウルトラサンムーンのシリーズもやった。ただ大学生時代のポケモンはレート大戦(オンライン対戦)が自分の中では主流で、楽しくはあったが苦しくもあった(このレート大戦というのをやると非常にポケモンバトルというものが奥深いものであることがわかる。ポケモンバトルとは努力、知識、運、その全てが注ぎ込まれるものなのである。これについて語り出すと、個体値努力値、育成など一般的にストーリーを楽しんできた人にはチンプンカンプンなことを延々と語ることになるのでここでは慎む。興味があればググるか、僕にあった時に直接聞いてほしい)。

 

 このように自分のポケモン歴を振り返ると、案外自分の人生とコネクトしている部分が多いことに気付く。ポケモンから学べることは多い。生き物と触れ合うこと。知らない場所に勇気を出して冒険にでること。勝つために戦略を構築すること。結局は運だということ(急所にあたる等)。社会で生きていく上で重要なことを自然に考えてプレイングしていることに気付かされる。そういう意味で、やっぱりポケモンは偉大なゲームだと僕は思う。

 

 軽く語ると言って、長く語るのが僕の悪い癖。本題に入ろう。今回の映画の話である。現在公開中の『ミュウツ―の逆襲Evolution』は、簡単に言ってしまうと『ミュウツ―の逆襲』のCG版リメイクである。観ればわかるのだが、本編は映像の構図や出てくるポケモンなど旧作と微妙に違う箇所などがあるもののほとんどは変わらない。唯一大きく変わっているのが、ミュウツ―を創り出した博士の娘アイとミュウツ―のエピソードが一切カットされているということだ。エピソードは本編を、というよりミュウツ―がなぜ人間に逆襲しようとするのかを理解する上で欠かせないエピソードであった。

 

 簡単にこのエピソードを説明する。ミュウツーを創り出した博士は「世界最強のポケモンを創る」と研究に打ち込み、ミュウのまつげの化石からミュウツ―を創り出すことに成功する。しかし、これは博士の研究の一つに過ぎなかったのである。ポケモンのクローンを創ることが目的ではなく、DNAから幼くして亡くなった自分の愛娘を複製することが博士の真の目的だったのである。そして、ミュウツ―同様博士は娘の複製を実現する。クローンとして創られたミュウツ―とアイツ―(娘のクローン)はお互いテレパシーを通じて深い夢の中で、交流を深める。しかし、アイツ―は不安定な状態に陥り、最終的に研究は失敗してしまう。深い夢の中から去っていく前にアイツ―はミュウツ―に「生きるって、ね、きっと楽しいことなんだから」と言い残す。このエピソードがミュウツ―に「生とは何か」という疑問を抱かせ、本編の逆襲へと向かわせるきっかけとなっている。

 問題は、公開中の作品にこのエピソードが全くないことである。博士はただ世界最強のポケモンを創ろうとしている悪者科学者として描かれ、ミュウツ―は人間の道具として生み出されたことに対する葛藤から人間に反逆を試みるポケモンとして描かれている。

 確かに市村正親の声で発せられる「ここはどこだ」「私は誰だ」「私は何のために生きている」という言葉は非常に重く観る者に生の疑問を突きつける。特に「何のために生きているのか」という問いは、僕たち鑑賞者の耳に鋭く突き刺さる。大人なら尚更かもしれない。レールの上を歩いて育っている子供にはなかなかわかりにくい実感のない問いかもしれないが、社会で働く大人にとって「何のために生きるか」という問いにどのような答えを持つかは、日々働き生活する上で大きな問題である。映画の答えとしては「何のために生きるか」は与えられるものでも、最初から決まっているものでもない。生きていく中でそれぞれが獲得していくものである、と述べているように感じられた。確かに、映画全体としてミュウツ―というポケモンを通じ一つのメッセージ(もしくは複数の)を伝えようとしていることはわかる。しかし、そしてやはり、アイツ―のエピソードがないとストーリーとして完成されていない気がしてしまう。ミュウツ―が逆襲に向かうまでの動機が弱すぎる気がしてしまうのだ。

 

 上記のように思ってしまうのはやはり旧版と比べてしまうからだろう。実際、映画自体はとても楽しめた。隣の子供連れの奥さんが泣いていたのも頷ける。ムサシはナイスバディだし、ニャースはやっぱり可愛い。

 

 最後に今回の映画を注意深く観ていて気付いたことがある。ミュウツ―の発する「ここはどこだ」というセリフ。重みがあり、自らの存在に対しての哲学的な示唆を含む言葉だが、実は映画の最後に意外なかたちでそれに対する答えが提示されているかもしれないと今回鑑賞して思った。旧版にもそのシーンはあったと思う。それは、ニューアイランド島での記憶を全て消されて港のポケモンセンターに再び戻されたシーンにあった。サトシとカスミの会話である。

 

「俺たち、なんでここにいるんだっけ」

 

「いるんだから、いるんでしょ」

 

「まあいっか」