メモに保存されていた断片的な日記

#1

 

朝井リョウのエッセイ集「風と共にゆとりぬ」に「待ち遠しい夏」という短編エッセイがある。どういうエッセイか簡単にまとめると「子供の頃に比べて待ち遠しいものが減った」というものだ。

 


朝井は社会人になって初めて8月に祝日が存在しないことに気づいたと言っている。学生時代は夏休みとして必ず休みだったからである。また、待ち遠しいものだった夏休みは、いつしか「どのタイミングで消化するか」という消化されるものになってしまったとも言っている。「社会人の性だよなぁ」と読みながらぼやいてしまった。

 

 

 

「大人になって待ち遠しいものが減りましたか?」と聞かれたとき、あなたは何と答えるだろうか。僕の実感としては減ったんじゃないかぁという気がする。というより、大人になってから待ち遠しいと感じるものが変わったような気がする。

 


何でも待ち遠しいと思っていた子供の頃に比べて、そう思えるものが限定されてきてしまった。休日、夜ご飯、友人との会食。ルーティーンになってしまった生活と忙しさの中でいつしか待ち遠しいものが減ってきた。もちろん待ち遠しさはあるのだけど、子供の頃のキラキラした待ち遠しさとはやっぱり何か違う。色褪せて擦り切れたような待ち遠しさ。

 


もうすぐ夏がやってくる。学生の頃は夏が好きだった。たっぷり休めるし、イベントはたくさんあるし、何よりもビールは美味しいし。夏の青い空とくっきりとした白い雲をベランダから眺めながら「今日はどこに行こうかな、明日は誰と会おうかな、やーめた、クーラーのきいた部屋で昼寝しよー」は最高すぎる。これが40日も続くのだから待ち遠しくないわけがない。

 


さて、社会人になった今、もうすぐやってくる夏に対して僕は臨戦態勢である。いかんせん僕の職業は体力勝負なのだ。仕込み室はタンクの熱で恐ろしいぐらい暑いし、外の仕事はカンカン照りの中で着々と進められる。そんでもって夏休みはまあ数日というところである。野球部時代に逆戻りである。夏の雰囲気は変わらず好きでも、もう今までのように夏を迎え入れることはできない。受け止めるという感じだ。かかって来いや、夏!

 

 

 

待ち遠しさが減ったなと感じる一方で、やっぱりそう思えるものがあるって大事なことだと思う。それはある種の希望なのだから。大好きなアーティストのライブに行くこと、唸るぐらい美味しいものを食べに行くこと、大切な人と過ごすこと。待ち遠しいものがあるから、僕たちは今日も明日も、その先も頑張って行こうと思える。日々の忙しさの中に大きくなくてもいい、小さな希望をもって、ひたむきに頑張ることは、当たり前のようなことだけれどとても美しい、と思う。

 

 

 

 

 

 

ああ〜、早く夏終わってくれ。チェルミコのライブが待ち遠しい。

 

 

#2

 

「眠りにつく」と「死ぬ」は似ているな、と思ったことがある。深い眠りに入っている時、私は私を感じない。ベッドに横たわり、天井の染みを眺めていたある瞬間から、目を覚まして枕の匂いを感じるまで。何も覚えていない。だとしたら死ぬのってめっちゃ怖くないか。始点と終点があるからそれ以前とかを覚えているわけで、目覚めなかったらもうおしまい。存在が消える。だからやっぱり世界ってのは自分の意識にしか存在しないんだよ。周りの人も友人も大好きな恋人も自分の思考世界の一部にすぎない。だけれどそうやって悲観にくれたところで何も変わらないわけで、残念なことに日々は続いていくし、老いていくし、死に近づいていくわけである。憎たらしいなぁ、畜生。

 

#3

 

 


今日、久しぶりに幸せな夢をみた。中学校の友人Aとの夢である。

 


状況は定かではないけど僕とAはバスの座席に隣り合って座っていた。

 


そうするとAがふいに料理の話をし始めるのだ。

 


「最後に黒胡椒をふりかけると美味しいの」

 


「なんだか酒のつまみみたいだね」

 


「そうかな?でもお酒飲むよ、仕事終わりとか」

 


「え、意外!晩酌とかしなさそうなのに」

 


驚くほど会話の内容に中身はない。しばらく他愛のない話をしたところでAはバスから降りていった。そこで夢は終わった。

 


久しぶりにAのことを思い出した。Aとは小中学校ずっとクラスが一緒だった。9年の付き合いである。普段は人を殺すような目で人を見ている女の子である。前に「何してるの」と聞いたら「人間観察」という答えが返ってきた。そんなAだが、笑う時にはとても柔らかい笑顔で笑う女の子だった。

 


この夢のバスの隣り合いはおそらく林間学校の時の記憶が影響している。たまたま班が同じでバスの座席が隣りだったのだ。なんてことない記憶なのに。引き金はどこにあるかわからないものだ。

 


最近は全く会わなくなってしまった。最後に会ったのは成人式の時。「二次会行かんの?」「うん、遠慮しとく」というやりとりをしただけだ。

 


今彼女はどこで何をしているのだろうか。今も昔と変わらず人間観察しているのだろうか。

 


久しぶりにAに連絡したら「私、お酒ほとんど飲まないよ笑」という返信が返ってきた。

 


誰かとの記憶と混在しているのかもしれない。

 

#4

 

風呂場でシャワーを浴びながら「なんで俺はものを考えられるんだろう」て思った。

 


この「思った」ていうのを表現するのめちゃくちゃ難しいんだよな。俺は俺以外になったことないから、他の人がどうだか知らんけど、考えたりする時に自分は頭の中に声がしている。例えば「りんご食べたい」とか「ちょっえ?」とか。他の人はどうなんだ。文字が脳内に浮かんでくる人とかいるのか。

 


言語を介さないやり方でものを考えることができるかやってみたけどきつい。イメージだけでものを考えようとしてみたけど、簡単なことはイメージできても複雑なことがイメージできない。

 


「思えない」て状況を表現するのは難しいけど、言語を持たない生物はある種主観的に生きていることになるわけだ。

 


というか、言語があるから自分を客観視して捉えられる視点が存在するわけで、だからこそ自分との対話とかいう謎めいたことが起きるんだわな。

 


アーレントが孤独と孤立の違いをどっかで書いていた気がする。人は時より孤独になって内省する必要がある、自己との対話。人は周りに人がいても寂しくなる時がある、孤立。これらのキーはやはり言語獲得による主観的客観視なんだろうな。

 

 

#5

 

いつ頃からか忘れてしまったけど、僕は「自分らしさ」という言葉が嫌いになった。

 


「自分らしく生きる」とか「自分らしさを大事に」とか、何を言ってんだいという感じだ。

 


枠に収まりましょう、そういうこと?そもそも「自分らしさ」て自分じゃわかんないし、じゃあ他人から「これがあなたらしさ」と言われてもそれはその人から見た自分の一面にすぎない。

 


自分らしい生き方なんてひどくつまらない。むしろ「自分らしさ(そういうものがあるなら)」とかをかなぐり捨てながら生きたいよね。自分が安心できる場所に浸かってんのは楽だけどさ、何も見えてこない。

 


ラッセルも言ってんだわ、「生をエンジョイできるようになったのは、自分に囚われなくなったから」だって。

 

#6

 

ものまねが好きだろうか。僕は、ものまねがとても好きだ。といっても、ものまねを「する」ではなく、「観る」ほうがだ。とんねるずが司会をしていた「細かすぎて伝わらないものまね」シリーズをYoutubeで探し、暇な時に観ていたりする。

 


ものまねとはまさしく「真似」であり、人や動物の動作・声などの特徴を掴み、表現することである。もう少し踏み込んで言えば、それはある人、ある動物を「演じること」でである。それが上手ければ、人は驚いたり、笑ったりする。では、ものまねにおける上手いとは何か。

 


僕にとっての上手いものまねは、何かただの「真似」という領域を超えているような気がするものだ。例えば、姿格好を完璧に模倣し、特徴的なセリフをその人らしく放つものまねは、それ自体とても魅力的ではある。しかし、姿格好なんか全然似てなくて、特徴的なセリフにもそこまでこだわらない。それなのに、恐ろしいほど似ていると感じるものまねもある。リアリズムを超越する「リアリティ」がそこにはある。そして、おそらく、両者を比べてどちらが上手いかと言われれば、後者を僕は押してしまう気がする。

 


これを一体どう説明すればいいか。そこで、僕が感じたのは「真似する」と「演じる」の差である。上手いものまねは、ある人や動物を「演じる」。演じ手は、写実的な面ではなく、客体の内面、すなわち魂を演じる。「真似をする」人は、私たちに現前しているが、現前していない。なぜなら、自己を忘却し、客体になりきるからだ。それに対して、「演じる」人は、自己と客体の中間を上手に表現する。それは、身体という制約の中で客体の魂を自由に表現する営みである。ある意味、それは模倣ではないし、客体に忠実な表現ではない。しかし、そこには「真似」を超えるリアリティが存在する。

 


会ったこともない人や知らない人のものまねを見せられて、妙に感動することがある。「憑依型か」というセリフは、東海オンエアのとしみつが「一人ものまねトーナメント」という動画の中で言ったものだ。これは、ものまねの確信をついている気がする。動画内でとしみつは多彩なものまねを見せる。NHKの人や水溜りボンドのトミーなど、どれも素晴らしいできだ。その中でも優勝の座をつかんだのは、地元のラーメン屋の店主サチオさんのものまねであった。もちろん、僕たちはサチオさんがどういった人物なのか知らない(コアなファンは知ってると思うが)。しかし、動画を見るとわかるのだが、誰が見てもサチオさんのモノマネが優勝するであろうことを予測できるのだ。これは、まさしくとしみつのものまねが「真似をする」の域を超えて「演じる」の域に到達していることを示すものだと思う。そこには、確かにサチオさんがいた。