応答②

※この記事は前回の続きではない。

 

「この間捕まったko生が読んでいたことからニュースで皮肉の材料となった『生きる意味』という本をご存じでしょうか?著作自体はさておき、私たちがこのように「生きる意味」って何なんでしょうか?これに関してお考えあればお聞きしてみたいです。」

 

 

 生きる意味についてあなたは考えたことがあるだろうか。

 

 

 

  生きる意味について考える前に考えなければいけないことがある。「結論を早く出せよ」という読者には非常に申し訳ないが、必要な段取りなのだ。文書を飛ばして最後だけ読むというのもできる限りやめてほしい、結論だけ読んでもきっとその答えの単純さに呆れるだけだろう。

 


 さて、生きる意味について考える前に考えなければいけないこととは何か。それは普遍的な「世界」は存在するかということだ。哲学的なテーマだなっと思った人が多くいるだろうが、そんなに難しく考える必要はない。

 


 この問いには各々の考えがあるだろう。僕個人の見解から言えば普遍的な「世界」は存在しないと考えている。「何を言ってるんだ、お前は。実際、お前は世界に実在してるじゃないか」と思った人が沢山いるはずだ。

 


  僕の考えをできる限り端的に言えば、普遍的な「世界」は存在しない。しかし、自分の五感から想像されうる認識上の「世界」は存在するということだ。イメージしづらい方のために、簡単な例で考えてみよう。

 


  Aくんの目の前にケーキがある。ケーキをはさんでAくんはBさんと向かいあっている。この時Aくんはこう思った。

 


「美味しそうなケーキだなぁ、苺も大きいし最高だよ」

 


同時にBさんはこう思った。

 


「なかなか美味しそうケーキね、でも、苺が邪魔だわ、私は集合体恐怖症であのつぶつぶが大嫌いなの」

 


何が言いたいかわかるだろうか。AくんとBさんの「苺」という対象に抱いている感覚が違う。このことは、2人の認識において苺は全く別のものであることを指している。2人とも同じ対象を見ているにもかかわらず認識が違う。さらに今僕は2人が同じ対象を見ているにもと言ったが実は2人は同じ対象を見てもいない。なぜなら、認識する対象は知覚を通して像を結ぶわけだが、それぞれの目の構造は100%同じだろうか。当然そうではない。私たちの対象に対する認識は一見一致しているように見えるがそうではない。

 


 このことから何が言えるかとい言えば、人は、いやもっと広義の範囲で言えるだろう、全ての生物はその個体の認識しうる世界にのみ生きているのだ。

 


 いや、お前の世界には他者が実在するじゃないかという声が聞こえる。よく考えて欲しい。それは、あなたの認識の中にしか存在しないのだ。あなたが死んだとしてもなお、その他者の存在を証明できるだろうか。それは無理な話である。

 


 ユクスキュルという生物学者は、各個体の固有の世界のことを「環世界」と名付けた。ユクスキュルは環世界の説明をするのにダニの例をあげるのだが、とても面白いので興味があれば読んでみてほしい。

 


 さて、個人は固有の環世界を生きているのになぜ通じあえるのか。これは疑問として間違っていない。この疑問を解決するのが哲学者の國分功一郎が概念として提起した「環世界移動能力」である。

 


 これを端的に説明するとこういうことである。「個体は環世界を移動する能力をもっている」。そして人はそれに長けている。

 


 例えば、ケーキに対しての印象をAくんとBさんで述べたとしよう。その時、AくんはBさんのケーキに対して印象を想像することができる。それは勿論、完璧な想像ではない。しかし、言語という共通の意味あいで解釈することができる。AくんはBさんの環世界を想像できる。それは、Bさんにおいても同じだ。そして、この環世界移動能力が私たちに普遍の世界なるものの存在を感じさせるのだ。

 


 やたらとペラペラしゃべってしまったが、言いたいことは、人はそれぞれの環世界に生きているということだ。このことがどうして生きる意味について語ることにつながるのか。

 


 人がそれぞれの環世界に生きているということは、生きる意味ということに関して普遍的な解を用意することはできないということを意味する。なぜなら、僕が語る生きる意味は僕の環世界において僕が語る生きる意味だからだ。生きる意味に対して「僕が語る」をつけない生きる意味を語ることは、個人的な考えを普遍化することであり、それは僕の望むことなじゃない。なぜなら生きる意味はそれぞれの環世界に基づいて自らが考えなければいけないものだと僕が考えているからだ。

 


  敢えて言おうと思う。僕は普遍的な意味での、「私たちの」生きる意味について語れない。ヴィトゲンシュタインを引用させてもらう。「語りえないものについては、沈黙せざるを得ない」。

 


 これが僕の答えだ。だけどこれでは納得してくれないと思うので、僕が考える生きる意味について少しばかり述べる。記事のおまけだと思って読んでほしい。

 

 まず、生きる意味があるかないかという問いが考えられる。意味があるかないかというのは、個人の問題だ。(なぜなら物事に意味があるのは、主体である個人が対象に意味を付与するからだ)。僕から言わせれば、生きる意味があるかを問わければいけないという境遇に幸運なことにも巡りあっていないので(この記事を書くことで巡りあってしまった)、どう答えていいのかわからない。ただ、この問いが現前に浮かんでくるならそれはもしかしたら問題なのかもしれない。

 


 生きる意味があるかという問いは生きる意味がないかもしれないと感じることによって生じてくるものだ。実際、生きることに疑問をもっている生物を僕は知らない(人間以外で)。そうした感覚は決して自発性のあるものではない。過去を完璧に切断して、突如「生きる意味があるか」などと自らに問うことはない。すなわち、生きる意味があるかを考えるということに価値はなく、そのような問いが生まれてくる個別の経験、状況に僕たちは注意しなくてはいけない。これが僕の考えだ。

 


 で、もうひとつ。生きることにどんな意義をもっているかという問いも考えられる。これに関してはあっさり言ってしまうが、どんな意義も持ってない。そもそも意義とは事後的に付与されるものなので、「生きる」ということに関して言えば、生きてるうちにわかるはずがない。なぜなら、僕たちは現在「生きていた」ではなく「生きている」からだ(そのうち「生きていた」になるが)。勿論、今までの人生の一部を切りとって「あれは意義があった(今の自分にとって)」ということは可能だが。

 


 ここまで、読んでくれた人はなかなか根気がある人だなと思う(拙い文章に付き合ってくれる心優しい人、というか優しすぎる)。個人的には、僕が述べたことなどどうでもいいと思ってる。共感するのも、反感するのも自由だ。ただ、読む過程で様々疑問があったはずだ。例えば「ここは説明しきれてない」とか「見方が甘い」とか。実はそうした経験に価値がある。他者の見解を読み、批判的に考えるという経験が、自らの見解を生み出すのだ。

 


 さあ、ここまで読んだあなたの中には生きる意味がどう醸成されただろうか。もし、醸成できていたとしたら僕がこの記事を書いたことには多少の意味があったのかもしれない。

 

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