「ネット上の人間関係における簡単な考察」のアルバム上の一曲における簡単な考察
たった一曲聴いただけなのにガッツリとバンドに惚れ込んでしまう。そんなことがたまにある。Chelmicoとかはその筆頭だったわけだけど、最近またそういう瞬間があった。イギリスのロックバンドThe 1975である。
音楽好きな職場の先輩が、今年のサマソニに行って「なんかようわからんけどめっちゃかっこよかったバンドがいた」と言っていたのがまさしくそのThe 1975だった。
職場から家に帰る間に一曲だけでも聴いてみようと思い、Apple Musicを立ち上げる。出てきたのはA Brief Inquiry into Online Relationshipsというやたらと長いアルバム名。「ネット上の人間関係における簡単な考察」て心理学専攻の卒論かよ、とか思いつつ収録曲を見ると何やらアルバムの最後に矛盾した曲名がある。
I always wanna die (sometimes)
「いつだって死にたい、時々」。面白い言葉遊びだなぁと思って、興味本意で再生を押した。
I bet you thought your life would change
But you're sat on a train again
Your memories are sceneries for things you said
But never really meant
人生は変わっていくと思っているよね?
でも、また同じ電車の席に座っている
思い出は君が言っていたもののための舞台道具だとか、でもね決してそうはならないんだ
You build it to a high to say goodbye
Because you're not the same as them
But your death it won't happen to you
It happens to your family and your friends
I pretend
さようならを言うために高く積み上げる
だって君は君だから
でも君の終わりは君に起こることじゃないんだ
君の家族に、友達に起こるんだ
敢えて言ってみようか
And I always wanna die, sometimes
I always wanna die, sometimes
いつだって死にたい、時々
死にたいんだ、時々ね
You win, you lose, you sing the blues
There's no point in buying concrete shoes
I'll refuse
勝って、負けて、ブルースを歌う
無駄死に意味があるか?
そんなの無理
And I always wanna die, sometimes
I always wanna die, sometimes
I always wanna die
Am I me through geography?
A face collapsed through entropy
I can hardly speak
And when I try it's nothing but a squeak
On the video
Living room for small
If you can't survive, just try
大地を通して僕は僕になったのかな?
無秩序に揉まれて崩れた顔
喋ろうと頑張るんだけど、うめき声しか出ない
動画の中で
小さいリビングで
生き抜けないなら、少し努力してみようか
And I always wanna die, sometimes
I always wanna die
Always wanna die
Always wanna die
Always wanna die
And I always wanna die
Always wanna die
Always wanna die, sometimes
Sometimes
Sometimes
Sometimes
I, sometimes, always wanna die
Always wanna die
Always wanna die
Always wanna die, sometime
もう入りから終わりまで本当に聴き入ってしまった。美しくて壮大なロックバラード。一度だけでは歌詞が聴きとれなかったので何度も聴き直す。
歌詞を聴きとって思ったのは決してこの曲は絶望を歌った曲ではないということ。
度々、詞に登場する「死」は区別されている。わかりやすいのはconcrete shoesという表現。無駄死にのような意味で解釈してみたのだが、サビの「いつも死にたい」が意味する「死」とは異なる。
歌詞が表現するように、書き手のマシューは無駄死にに意味はないと言っている。価値ある死を選ぶべきだと。なぜなら「死」は自分に起こることではないからだ。
人が死ぬのは、終わるのはいつか。肉体的な死は瞬間的なものだ。では、果たしてそれは本当の終わりなのだろうか。
歌詞に「死は、君じゃなく家族に、友人に訪れる」とある。これはマシューが死は残された大切な人たちに向かうもので、彼らの中で受容されるものだと考えているからである。なぜなら、死を見るのは自分ではなく彼らだからである。非常に外在的な考え方だ。
だとしたら、自分の一時の苦悩や葛藤から逃げるために死を選ぶことは正しいことなのか。マシューはそう考えない。価値ある死を選びたい。だからサビで美しく歌うのである。「いつも死にたい」と。
ただ、自分の苦しみから逃げるために死を選ぶことを否定しきらないところがマシューの優しさである。「生きづらいなら少し頑張ってみようか」とさりげなく背中を押す。なぜなら薬物中毒になりどうしようもない精神的苦悩に彼自身が直面したことがあるからだ。
人はどうしようもない苦悩に直面する時がある。大切な人を失ったり、社会に馴染めなかったり、マシューのように薬物中毒から抜け出せなくなったり。その時に「死にたい」と思うことはある。ただ、どのように死にたいかを選ぶことはできる。大切な人たちに「最後までかっこよかった」と思われる死か。それとも「なんで私たちは君の苦悩、悲しみを理解してあげられなかったんだ」と思わせてしまう死か。
僕は、内在的に物事を考えるタイプで自分が死んだその後も自分が見ていた、生きていた世界が続くなどとは思っていない。だから、こういう外在的な見方にある種否定的なのだ。けれど、結局これが真実といった真実はないわけで、内在的だろうが外在的だろうが明日はやってくるし、死は近づいてくるわけだ。だったら、悩んだり苦悩している余裕なんかない気がして。
全力で目の前のことに取り組んで、厳しい現実には笑顔で迎え撃つ。「来たな、厳しい現実、お前なんかボコボコにしたるわ、なぜなら俺はかっこよく死にたいんだ、お前なんかに構ってる余裕はないんだよ」と。
「明日死ぬかもしれないと思って今日を全力で生きたいんだ」とThe 1975ボーカルのマシューは語る。そんな、彼らが全力で作りあげた曲に感動しないわけがない。
だから、彼らの曲を聴いてほしい。きっと力強いメッセージを感じられるだろうから。