羊文学「人間だった」の解釈を本気で考える

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先日、羊文学が最新アルバム「ざわめき」をリリースした。前年のアルバム「きらめき」から約半年ぶりのリリースとなった本作。前作アルバムの楽曲ロマンスは羊文学のサウンドからやや離れた趣きがあったため、今作でまた挑戦的な曲が入ってくるのかと思っていたのだが、挑戦という感じはない。むしろ自らのサウンドや歌詞の個性をより私たちに印象づける作品になっていると私は感じる。より羊文学らしい曲を楽しめる。

 


今回取り上げる「人間だった」という楽曲はポストヒューマン以後の「人間」を主題としている。Youtubeの動画、メロディラインともに最初から最後まで駆け抜けるような気持ち良さがある。先ずは、歌詞を参照してみよう。

 

 

 

 


きこえるかい 命の声が

 


きこえるかい  きこえるかい

 

 

 

きこえるかい 大地の歌

 


きこえるかい きこえるかい

 

 

 

ぼくたちはかつて人間だったのに

 


いつからかわすれてしまった

 

 

 

ああ いま 飛べ 飛べないなら

 


神さまじゃないと思い出してよ

 

 

 

街灯の街並み 燃える原子炉

 


どこにいてもつながれる心

 


東京の天気は 晴れ 晴れ 雨

 


操作されている

 


デザインされた都市

 


デザインされる子供

 

 

 

もっと便利に もっと自由に

 


なにを得て なにを失ってきたのだろう

 


怖いものはない 怖いものはないのかい

 


忘れないで 自然は一瞬で全てをぶち壊すよ

 

 

 

本当はわかっている 君もわかっている

 


花の一生にとって 君は必要ないこと

 

 

 

わたしは知っている そしてただ見ている

 


人間が神になろうとして 落ちる

 

 

 

ぼくたちはかつて人間だったのに

 


いつからか忘れてしまった

 

 

 

ああ いま 飛べ 飛べないなら

 


神さまじゃないと思い出して

 

 

 

ああ いま 行け 走って行け

 


風を切る奇跡 思い出してよ

 

 

 

神さまじゃない

 

 

 

「人間」とは

 


最初にポストヒューマン以後の「人間」を主題としていると書いたが、ではここでの人間とはどういう意味だろうか。

 


大枠を得るために、吉川浩満さんの『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』を紐解いてみよう。

 


ポストヒューマン期、それ以後の「人間」を知るためには、そもそもそれ以前、すなわち近代的な学問が知の枠組みとして扱っていた「人間」を理解する必要がある。

 


例えば、フーコーは『言葉と物』の中で近代の幕開けとともに「人間」という知の枠組みが誕生し、それが同時に諸学問において中心的な役割を果たしてきたと述べている。

 


「人間」は特殊な役割をもっている。それは、あらゆる学問を可能にするものでありながら、その研究の対象でもあるという両義的なものである。

 


近代の諸学問では、経験に先立つ理想像としての人間が想定されていた。啓蒙主義の理念的モデルとしての人間である。合理性と主体性を備えた人間の観念は、学問研究による経験として見出されたものではなく、それを成り立たせるために前提とされていたものだったわけである。

 


一方で、人間を研究対象とした学問も次々と誕生していた。人間の超越的な理想像を前提にしながら、その人間を研究するという動きが近代という時代にはあった。

 


フーコーの『言葉と物』は「人間の終焉」を告げた書物として知られるが、その「人間」がすなわちここまで話してきた近代的な「人間」である。

 


「人間の終焉」とはすなわち、人間を対象とした研究が、その探究の前提となっている人間像を破壊する事態を指している。近年、次々と明らかになっているが、実は人間というものは不合理な生き物である。

 


フーコーの予測に加えて吉川は最近の生命科学の発展、認知革命が「人間の終焉」に繋がっていると指摘している。生命科学の分野では遺伝子操作によって人と豚のキメラ制作が試行されるなど、生物種の境界が不明瞭になりつつある。人間の不合理性を前提とした行動経済学なども、経験的な諸科学の成果を前提として発展してきた。

 


この楽曲内での「人間」がすなわち、学問分野での「人間」を指しているかは定かではないが、それまでとそれ以後の線引きをタイトルが示すように、ここで疑問を投げかけられているのは、ポストヒューマンであり、ポストヒューマン以後の人間である。

 


歌詞の「デザインされる子供」などはおそらくゲノムの操作によって両親が子供の外見を決められるようになるかもしれないという事態を指している。私自身は安易な態度表明をするつもりはないが、倫理学的整備が追いついていない状態でそうしたことが為されるべきではないと考えている。「やってしまった」では遅いからである。

 


「人新世」の観点から

 


「人新世」という概念は、人間の活動が地質にまでその痕跡を残す可能性があるという地 質学者のパウル・クルツェンによる学会での主張から盛んに議論されるようになった言葉 である。この言葉を、新しい地質年代として認めるかどうかは専門家の間でも意見が分かれている。

 


この「人新生」というワードからもこの楽曲は切り込める。例えば「人間が神になろうとして落ちる」「自然は一瞬で全てをぶち壊すよ」の部分。

 


人間の営みは地球が無ければ成り立たない。その地球を私たちは地質レヴェルに痕跡が残るまで改変しつつある。これもいわゆる前提が改変されているという倒錯的な事態だ。

 


その事態をどうとらえるかに疑問をこの曲を投げかけるわけである。好き勝手やって、コントロールできると思っているのかい。思い出してごらん、人間が災害に勝てたことがあったかい、と。

 


まとめ

 


想像以上に色んなことが考えられる楽曲でとてもいい。こういう歌詞をはっきりと歌えるところに羊文学の良さがある。

 


プラスアルファで良かったと思ったのはyoutubeの動画作品である。女性が海の見える風景をバックに身につけているものを手放して駆けていく。そこには、私たちが築き上げてきたものによって私たち自身が束縛されているのではないか、そこから自由になってもいいのではないかというメッセージがある気がしている。

 


まだまだ、今年は始まったばかりだが一推しの楽曲である。是非色んな人に聴いてほしい。

 

https://youtu.be/16jL0eThQmM

人間だった

人間だった

  • 羊文学
  • ロック
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

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