お金が「お金」であるとはどういうことか

 

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 「物々交換経済では、靴職人もリンゴ栽培者も、何十という商品の相対的な価格を、毎日あらためて知る必要がある。市場で100種類の商品が取引されていたら、売り手も買い手も4590通りの交換レートを頭に入れておかなければならない。そして、もし1000種類の商品が取引されていたら、売り手と買い手が計算に入れなければならない交換レートは、なんと499500通りに達する!そんなに多くのレートなど知りようがないではないか。」 (ユヴァル・ノア・ハラリ、柴田裕之訳『サピエンス全史~文明の構造と人類の幸福~』河出書房新社、2016年)

 

 

 

 1958年、経済学者のポール・サミュエルソンによって「世代重複モデル」が発表された。モデルでは、未来永劫にわたって続くひとつの経済世界が想定されている。モデルの世界では、毎期人間が生まれてくる。しかし、人間は「若年期」と「老年期」の2つの期間しか生きられない。若者は消費財をつくることができ、老人はできない。また、消費財の種類は1つしかなくすぐ腐るので貯えておくことができない。老人は、若者がつくった消費財の一部を手に入れなければ生きることはできない。若者は、自分が老人になった時に備えることが出来るなら消費財の一部を手放してもよいと考えている。それでは、このように交換を望んでいる若者と老人の間に望ましい交換関係は成立するだろうか。社会倫理も社会契約も存在しない自由主義放任経済においては「否」だ。なぜなら、老人は差し出すものがないからだ。両者に相互的な関係を結ぶことはできない。アダム・スミスの『国富論』以来、経済学者は個々人の一見バラバラな自己利益の追求は市場におけるモノとモノとの直接的な交換を通じて最適な資源配分を実現することができるという命題を教え続けてきた。サミュエルソンの「世代重複モデル」は、純粋な自由放任主義的な物々交換が望ましい資源配分をもたらしてくれないという可能性を極端な仮定によって示した。

 

 

 では、ここに「貨幣」なるものを導入してみる。そうすると、この世界は一変する。世界の初めに、老人たちがそれぞれ一枚の紙切れを発行する。この紙切れが消費財一単位と同等の価値を未来永劫持ち続けることを人々に信じさせることに成功したとする。そうすると、老人たちは実質的には何も持っていないのに、この紙切れを若者に差し出せば、代わりに消費財一単位を受けることができる。なぜなら、若者はその紙切れが消費財一単位と同等の価値を持つことを認知しており、自らが老いた時に次の期の若者にそれを差し出せば、消費財を受け取れることを知っているからである。勿論、若者からもらった消費財は老人に食べられなくなってしまうが、老人から若者の手に渡った一枚の紙切れは次の期からその次の期へと未来永劫流通していく。老人が発行した紙切れを僕たちは「紙幣」と呼ぶようになった(勿論、この話自体はフィクションだが)。

 

 貨幣は、歴史上何度も生み出された。それは、技術の飛躍的発展ではなく、精神の革命だった。人々が共有する存在の中に新しい主観的現実があればそれでよかったのだ。貨幣というのは、紙幣や硬貨に限らない。タカラガイの貝殻は約4000年にわたって、アフリカ、南アジア、東アジア、オセアニアの至るところで貨幣として使われていたし、アウシュビッツの収容所では、タバコが貨幣として機能していたという。史上初の硬貨は、リディアの王アリュアッテスが紀元前640年頃に造ったと言われている。

 

 貨幣は基本的に二つの原理に基づいている。それは、普遍的転換性と普遍的信頼性である。媒介物としてあらゆるものの交換を可能にし、仲介者としてどんな事業においてもどんな人どうしでも協力できるようにする。『サピエンス全史』の作者であり歴史家のユヴァル・ノア・ハラリに言わせれば、貨幣は人類の寛容性の極みである。ハラリは「貨幣は言語や国家の法律、文化の基準、宗教的信仰、社会習慣よりも心が広い。貨幣は人間が生み出した信頼制度のうち、ほぼどんな文化の間の溝をも埋め、宗教や性別、人種、年齢、性別的指向に基づいて差別することのない唯一のものだ」だと言う。

 

 ただし、ハラリは貨幣の暗い側面についても指摘している(資本主義の危機を肌で感じている僕たち世代にとっては、こちらのほうが馴染み深いかもしれない)。貨幣に信頼が依存するとき、各地の伝統や親密な関係、人間の価値は損なわれる。冷徹な需要と供給の法則が、それらにとって代わられてしまう。人類の歴史は、「値のつけられないほど貴重な」ものへの信頼によって基づいてきた。それは、命や友情、愛である。こうしたものは通常、市場の外にあるが、人間の貨幣に対する欲望はしばしばそうしたものを市場に巻き込んでいる。軍需産業は、自らの市場を活性化するために戦争が起こってほしいと思っているし、人が奴隷として売られていた歴史も存在する。貨幣は確かに人々の間に信頼を築くが、その信頼は人ではなく貨幣への信頼だ。それに依存しきっている人間は、貨幣のない人間と信頼を築こうとしない。貨幣によって成り立つ現在の世界は非常に不安定でデリケートな基盤の上にある。

 

 僕たちは資本主義の世界に生まれてきた。少なくとも、僕と同世代の人はそうである。子供の頃から当たり前のように、お金自体には価値があると思ってきたし(実際、価値はある)、それに疑問を抱くこともそれほどなかった。だが、大人になるにつれてそのようには思えなくなってくる。紙幣にしても硬貨にしても、よく見ればそれは印刷が施されただけの紙切れだし、くず鉄である。そして、それは人間共同の想像の存在に支えられている。貨幣は、それ自体としては何の価値もない。貨幣それ自体に価値がないということは、日常でも感じることができる。例えば、海外の旅行先で日本円は使えない。アメリカで2ドルのホットドッグを買うとしよう。ドルを換算し、日本円で屋台のおっちゃんに手渡す。屋台のおっちゃんがまともな人ならそれを受け取ってくれないだろうし、ホットドッグも買えないだろう。なぜなら、屋台のおっちゃんにとってそれは貨幣ではないからである。アメリカにおいて、それは普遍的信頼性もなければ普遍的転換性もないのだ。だから、僕たちはわざわざ換金する。

 

 たまに、こんなことを考える。次の日の朝、目を覚ましたら貨幣と呼ばれるものが全て無くなっている(コンピューター上のデータも)。世界は大混乱である。人々は、経済体制の選択に迫られる。資本主義を復活させるのか、物々交換の世界に戻るのか、または新しい経済システムを構築するのか。僕は、資本主義の世界にまた戻ろうとするのではないかと思う。それぐらい中毒的な魅力が資本主義の世界にはあるし、人間はその魅力に弱い。貨幣が消えてしまった世界で、資本主義の世界を求める人々がしなければいけない最初のことは一つだけである。それは、周りの人々が信じているように、そこら辺に転がっている石ころに価値があると信じることだ。

 

 

 

文献

ユヴァル・ノア・ハラリ、柴田裕之訳『サピエンス全史~文明の構造と人類の幸福~』河出書房新社、2016年

岩井克人『二十一世紀の資本主義論』ちくま学芸文庫、2006年

文献の案内

 ハラリの『サピエンス全史』は読み物としてとても面白い。歴史や考古学を専門的に学んだことのない人でも十分に楽しんで読める。僕自身は、「認知革命」や「農業革命」を主題として扱う上巻が好きだが、動物の倫理やこれからの人類を考える下巻も魅力的な内容となっている。

 岩井の『二十一世紀の資本主義論』は、前半がやや難しく感じる。僕は、経済学をしっかりと学んだことがない人間なのでやや辛かった。ただ、2部から始まるエッセイなどは大変面白い内容になっている。「美しきヘレネ―の話」と題された短めのエッセイはとても気に入っている。岩井の経済学を振り返りたい人にはおすすめの一冊だと思う。

 

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