応答①

「延命治療についてどう思いますか。人の終わり方の是非を第三者が議論している状況についてどう思いますか。」

 

 お題箱にお題が届いていたので、今回はそれについての記事だ。

 

 

 このお題(質問というべきか)を見て思ったのは、文面通りに答えるべきか。それとも、文面から推測して質問者の意図を出来る限り正確に読み取って答えるべきか、ということである。せっかく、質問をしてくれたということなので出来る限り丁寧に答えたい。少し長い記事になるかもしれないが、付き合っていただきたい。

 

 先ず、この質問文をそのまま読むと質問者の意図がやや汲み取りにくい。おそらく、答えてほしいこととは別の話題に逸れてしまう気がする。そのため少しだけ質問文の修正をしていきたい。

 

「延命治療という選択肢についてどう思うか。延命治療をしなければ死んでしまう人(おそらく昏睡状態)を前にして、第三者が生死に対する判断を下すことについてどう思うか。」

 

 どうだろうか(もし、質問してくれた方の意図と違っていたら申し訳ない。コメントで指摘していただきたい)。今回の記事は、この修正したお題をもとに展開していく。

 

 

 状況の分析からしたいと思う。先ず、当事者は事故や何らかの病気の悪化によって昏睡状態に陥っている。すなわち、当事者は自らの生死に対する判断を第三者に示すことができない状態にいるわけだ。そうした状況下で、第三者は判断を下す立場に立たされている。

 

 ここでの重要なポイントは二つある。1つは当事者の判断、つまり意志決定を確認するものがあるかどうか。そして、ある場合にはその意思決定を伝え示すものがどれだけ当事者の意志決定を反映しているものなのか。さらに、そうした「伝聞された意志」に依拠して判断を下すことは正しいことなのかということだ。もう1つは、「意志」とはそもそもどういうものかということだ。

 

 最初のポイントについて考えてみよう。当事者の意志決定が確認できるものがない場合は直接的に第三者が当事者の意志決定に関わることになると考えられる。これは次の議論でも前提することだが、第三者はおそらく意志決定の立場に立たされているということだ。能動的に立っているわけではない。当事者の昏睡状態という状況が第三者に生死の判断を強制している(もちろん、それは社会的な倫理観が前提とされている場合に限る。そうした前提なしで考えた場合第三者が生死の判断をする必要性そのものが問われる状況が生まれるからだ。そこまで議論を広げると収拾がつかなくなるし、そのような議論は僕の手には余る)。一般的な倫理観を前提とした場合、第三者に生死の判断が任されることはどうしようもないことだ。医師や看護師といった他者に判断を任せるといったこともできるだろうが、それは何だか納得できない気もする(個人的な見解)。当事者の意志が確認できない状況が医療の現場においてどのように扱われるのか僕にはわからない。医療倫理に関する規則を読んだが、そこで一番重視されていたことは当事者の意志を尊重するということであった。ここではそうした原則に則って話を進める。そうした場合、意志そのものが確認できない状況で延命治療が選択の可能性に入るかどうかと言われれば、それは入ると言えると思う。なぜなら、意志の尊重を第一の事柄と考えた場合、昏睡状態から復帰するわずかな可能性にかける必要があると考えるからだ。ただ、それは安定した昏睡状態に限るというもので、当事者が激しい苦痛に見舞われている場合などはまた違った判断を下す必要性があるのかもしれない。どちらにおいても確定的な結論を導きだすことはできない。しかし、延命治療という選択肢は考えられるものであることは間違いない。

 

 次に、当事者の意志が確認できる場合について考える。最初にその意志の質が問われなければいけない。例えば、家族会議で家族の誰かがもし昏睡状態になり生死を彷徨っている状態になった時にどのような判断を下すか話をしていたとしよう。その時、当事者が「私がそのような状況になったら、延命治療をしてください」と言っていたとする。そうだった場合、第三者である家族は多少なりとも当事者の意志を尊重して判断を下していると自認することができるかもしれない。しかし、全く状況が異なる場合だったらどうか。例えば、当事者が酒の席で「俺が昏睡状態になったら、死なせちゃっていいよ、迷惑かけたくないし」と言っていたらどうだろうか。これもある種当事者の意志であることに違いはない。しかし、第三者はこれを当事者の意志であると考えて決定を下すことができるだろうか。前者の状況と比べれば、その判断はより難しくなる。

 そして、さらに考える必要があるのは、そもそもそうした「伝聞された意志」というものを根拠に第三者が判断することは正しいのかということだ。結局のところ、意志が確認できていようがいまいが、その判断の難しさはさほど変わらない。医療倫理の原則に従って当事者の意志を尊重するのであれば、意志の確認ができるほうが判断の根拠が存在するだけ第三者の判断に正当性を付与することはできる。しかし、それはただ判断の正しさが外部から認められるというだけであって、決断を下す立場にある第三者の苦悩は決して解消されるものではない。

 意志が確認できる状況において、延命治療をするかどうかは何とも言えない。というより考えられる判断であることは、意志が確認できない状況の時とさほど変わらないと言えるだろう。

 

 医療倫理の世界では、当事者の意志の尊重が最も重視される。最終的に判断を下す立場に私たちが立たされるということは、世の中の社会的倫理観が変わらない限り変わらないだろう。

 

 意志が確認できるかできないかという差異は第三者が判断を下さなければいけないという状況にわずかな違い(言い過ぎかもしれない)しかもたらさず、第三者の苦悩は変わらない。

 

 ここで問うてみよう。なぜ苦悩するのか。なぜ、私たちは意志の尊重が確認できる状況にあっても判断に悩むのか。それは、単純に生死という大きな問題に直面しているという理由だけから帰結するものだろうか。

 

 最後のキーワードは「意志」という概念についてだ。

 

 まだまだ、議論を展開したいところだが今回はここまで。

 

 

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