家について
「ファーンズワース邸は、思うに、ちゃんと理解されたためしがない。私は朝から晩までこの家の中にいたことがある。それまで、自然があんなに色彩的だなんて知らなかった。室内空間にニュートラルな色を使うには注意深くないといけない。自然にはあらゆる色があるし、その色もいつも移り変わっていく。そりゃ、豪華なものだよ。」(ミース・ファン・デル・ローエのインタビューより)
僕の家は特殊だ。はっきり言って普通の家ではない。僕の家を訪れたことのない人からすれば「何を言ってんだ、こいつは」という感じだろうが、訪れたことのある人からすれば「まあ、普通ではない」と思うだろう。まず、庭に人の顔の彫刻が転がっている時点で奇妙すぎる。
話が逸れた。僕が話したいのは、庭の特殊についてではない。家の空間の特殊についてだ。これは、つい最近(数年前だろうか)気付いたことなのだが、僕の家には仕切りというものがあまりない。すなわち、空間と空間を隔てているものが普通の家に比べて圧倒的に少ないのだ。例えば、僕の部屋とリビングを仕切っているものは木製のドアだが遮音性が皆無に等しい。僕が部屋で映画を観ようものなら音はリビングに筒抜けだ。逆もしかりだ。リビングの音もばっちり僕の耳に入ってくる。僕の家ではすべての空間につながりがあるのだ(特にメインの2階)。なんなら、家と外との空間との仕切りも曖昧である。大きな窓はとても開放的で季節によって素晴らしい自然の景色を味わうことができる。一方で、あまりにも大きすぎる窓のせいで、ブラインドを全開にすれば外から部屋の隅々までが見えてしまう。
小さい頃から住んでいたので気付いていなかったが、やっぱり特殊な家だ。こうした家の空間の特殊さに気付いたのは、ミース・ファン・デル・ローエという建築家が建てたファーンズワース邸についての考察に授業で取り組んでいる時だった。ミースはファーンズワース邸にユニヴァーサル・スペースという空間様式を使用した。それは、床および天井と、最小限の柱と壁で構成される、あらゆる用途にも自由に対応できる空間のことをさすものだ。そこでは、無駄な装飾が排除され、美的・公共的な空間がつくりだされる。彼は、そうした空間様式を用いてファーンズワース邸を建てた。(詳しくその建築を見たい人はグーグル先生を有効活用してほしい)。
ファーンズワース邸は「独身者の家」として知られる。この家が独身の腎臓医、エディス・ファーンズワースのために建てられた家だからだ。家の構成はワンルームに、ベッド二つ、浴室、トイレ二組だ。
問題なのは、これが住居として妥当かということだ。広いガラスの壁はデザインそのものとしては美しい。しかし、それはあくまで建築物のデザインとしての評価にすぎない。住居というものは私的空間を内包するものだ。この家にはそうした境界が外と内、さらに内の中にもない(ワンルームなので、ゲストとホストは常に同じ空間にいることを強制される)。ワンルーム空間を志向するユニヴァーサル・スペースは、本来住居が持つ私的空間を捨象している。
こうした考察をしているうちに、なんとなく自身の家についても考えてみた。僕の家は、ミースのように極端なワンルーム志向ではないがモダン建築の要素が少なからず入っている(家の設計者は叔父でル・コルビュジエの影響を受けている)。そのせいか、ワンルームとはいかないまでも空間としてはワンルームに近いような家なのだ。つまり、これまでの二十年間、僕は私的空間が普通よりも捨象されている空間で生きてきた(家という場所において)。別にそれが普通だったので、今になって強烈な違和感などない。しかし、こうしてワンルーム志向の建築物の欠点を考察していくと、それに近い建築物に住んでいる僕としては変な気分になる。
勿論、モダン建築に良い部分がないわけではない。最初に引用したインタビューが示すようにワンルームを志向する建築には、自然の美しさというものを十分に感じられるという長所もある。夏の午後、僕は真っ青な空に雲がゆっくりとなびくのをぼんやりと眺める。冬の夜には部屋のブラインドを全開にして電気を消し、窓の外に広がる星空をゆったりと堪能する。
ここまで、ミースの建築に触れながら僕の家について話をしてきた。あなたは自分の家について考えたことはあるだろうか。僕は授業で課題を出されなければ一生考えることはなかったかもしれない。しかし、建築について少し知るだけで家に対する見方は大きく変わった。
どんなことでもちょこっとかじるだけで、世界は大きく広がる。その世界をさらに広げるかはその人次第だ。
選り好みせずに、先ずはひとかじり。
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