前のめりについて

 

「おかしなことだが、列車が遅く走れば退屈してしまう乗客が、この列車はほかの列車よりも15分早く着くのですと、出発する前、あるいは到着後に説明するのに15分かけてしまう。人はだれでも、1日に少なくとも15分は、この列車の威力のことを言ったり、トランプ遊びをやったり、夢見心地になったりするものだ。それと同じ時間を、汽車のなかでむだに過ごしてはなぜ悪いのか。」(アラン、神谷幹夫訳『幸福論』岩波文庫、1998年)

 

これは、アラン『幸福論』のプロポ39「スピード」から引用したものだ。

 

私たちは時間の節約が大好きだ。待ち合わせの場所にスムーズに(乗り換えで待つことがないように)行くために電車のルートを検索する。あるいは、欲しい商品をオンラインショッピングで買う(自分が店頭に出向く時間を節約するために)。

 

確かに、時間は大切なものだ。不意の渋滞だったり、遅延だったりで予定通りにいかないとイラついてしまう。その時間でどれだけ沢山のことが出来ただろうか。そう考えてしまう。

 

 だけれども、アランが指摘してるように、私たちは本当に節約によって生み出した余暇を上手に使えているだろうか。例えば、節約した時間の半分はだらだらと家で過ごしてるだけだったりしないだろうか。大して興味もないことをネットで調べてるだけだったりしないだろうか。

 

別に、節約した時間をつぶしている人を非難しているわけではない。これは、そういう事実の1つを示しただけだし、これを書いてる僕自身もそういうことはよくある。

 

 僕が指摘したいのは、社会の前のめりについてだ。おそらく、私たちの多くは節約した時間を上手く使えていない。しかし、社会の時間の節約に対する気合の入れようは半端ではない。

 

 例えば、AIを搭載した自動操縦の車。AIが運転してくれるので私たちは運転の時間を節約できる!

 

 あらゆることが、時間の節約に向かう。しかし、私たちはそうして生まれる余暇にどのように向き合っているだろうか。周囲に常に「暇だ」と言っている人はいないだろうか。「やることがない」と言っている人はいないだろうか。

 

 

 時間の節約はもう十分なんじゃないだろうか。むしろ、考えなければいけないのは私たちが余暇とどう向き合うかだと思う。

 

 しかし、ここに消費の罠が待っている。余暇を持て余す人々に企業はこう提案する。「新しいコンセプトを取り入れたお店がオープンします。是非ご来店を!」「次の期種は画質がさらに良くなっています。素晴らしい写真を撮って、素晴らしい思い出を!」。そして、余暇を持て余した私たちは経済の消費活動に参加することになる。ここでの私たちの目的は、新しいお店でも新しい機種でもない。消費という1つの暇つぶしであり経験だ。そしてその経験を人にしゃべったり、SNSにアップすることも暇つぶしだ。そして、そのような行動が自分自身は余暇を上手く使っているという感覚を引き起こす。しかし、実際は経済活動に参加させられているにすぎない。

 

 社会の前のめりは経済を上手く機能させるためなのかもしれない。別に、消費活動に参加することが悪いわけでもない。僕自身「じゃあ、余暇にどのように向き合っているんだよ」と言われれば、ある程度は経済活動に参加していることを認めざるえない。

 

 しかし、なんだか悔しいのだ。言葉にするのは難しいが悔しい。求めている以上の節約によって余暇を与えられ、その余暇の使い方まで提案されている私たち。

 

 私たちはどう余暇と向き合っていけばいいのか。どうすればいいのだろうか。たまにそんなことを考えてしまう。

 

 

 

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